一故人

桂歌丸—「『笑点』の歌丸じゃ嫌なんだ」と言った真意

テレビでもおなじみだった桂歌丸。彼はどのようにして落語家となり、そして何をめざしていたのでしょうか。今回の「一故人」では、彼の足跡をたどりながら、芸の道に邁進した姿を描きます。

落語は二の次? 釣りに熱中した日々

落語家の桂歌丸(2018年7月2日没、81歳)は、かつて色紙を求められると「釣り有り、人生楽し、寄席の高座、その次です」とシャレで書くほど釣りに凝っていた。貧乏だったころには、仕事を3回ぐらいやってやっと買えるような高い釣竿などを買ってきては、よく夫人に泣かれたという。

またあるときには、地方の公演先で、楽屋の窓の外に、タナゴ釣りで餌に使う玉虫がいっぱいついた木を見つけ、窓から手を伸ばして捕れる分だけ持っていった。その10日後、また同じところへ来たので、今度は弟子をむりやり木に登らせて捕らせたという。歌丸いわく《落語家というのは、何でもできなきゃ一人前になれないのです》(桂歌丸『岩魚の休日』)。

釣りに関しては失敗談も少なくない。桂米坊と名乗っていた時代のある日、寄席の出番前に、師匠の桂米丸の楽屋へあいさつに行ったところ、自分の家の近所で火事があったと知らされ、すぐに帰るよう言われた。それで急いで引き返したところ、自宅は少し水をかぶったぐらい。その翌日は芸人仲間と海釣りに行くことになっていたので、予定していたとおり寄席を休んで出かけた。しかし、それを知らない師匠は彼が火事で休んだものと心配して、おかみさんを家まで見舞いに行かせたところ、釣りに行ったことがバレてしまう。その後、師匠からはこってりと絞られた(桂歌丸『極上 歌丸ばなし』)。

それでも、釣りに対しては歌丸なりに流儀もあった。たとえば、相模湖の船宿の主人から教えられたという「浮気をするな」。すなわち、もしワカサギを釣りに来たのなら、釣れないからといってほかの魚に手を出してはいけない。それをやっては本当の釣りがわからなくなるというのだ。この教えは、後年、歌丸が新作落語を一切やめて、古典落語に専念したことにも通じるかもしれない。

一方で歌丸は、日本テレビの演芸番組『笑点』に番組開始時より出演してお茶の間の人気を集めた。本人に言わせれば『笑点』はあくまで「噺家の余暇」であり、《あたしは『笑点』の大喜利の歌丸じゃ嫌なんだ》と語ったこともあった(『週刊文春』2006年8月3日号)。しかし彼は結局、『笑点』が放送50年を迎えるまで出演し続ける。その真意は一体どこにあったのだろうか。それについて探りながら、生い立ちを振り返ってみたい。

遊郭で育った少年

桂歌丸、本名・椎名 いわお は1936年8月、横浜に生まれた。3歳で父親が亡くなり、母親は姑との折り合いが悪く、やがて実家に戻ったため、巖少年はほとんど祖母に育てられた。祖母は横浜・真金町で遊郭を経営し、地元では「真金町の三大婆」と呼ばれてヤクザも避けて通るような女傑であったという。

祖母はしつけには厳しかったが、それも時々のことで、普段は甘やかされて育ったという。歌舞伎でもデパートでもどこへでも連れて行ってくれたし、小遣いも、よその子供が5銭のところを10銭もらっていた。歌丸はそれでベーゴマやメンコ、駄菓子などを買った。戦後になってからは、手塚治虫のマンガを買っては愛読していたという。

祖母の経営する遊郭は、間口が7~8間もある純和風の大きな建物で、歌丸もそこで暮らしていた。遊郭の女性や、 男衆 おとこし や女中など従業員からもかわいがられた。戦前の遊郭では、朝、客が帰るときに赤飯を出すことが頻繁にあり、歌丸も余った分をよく食べていたという。じつは、その赤飯は出征する童貞の若者が初めて遊郭に来て一晩をすごし、帰る際に、出征と男になったお祝いとして出されたものだった。

祖母の遊郭は戦時中、歌丸が千葉へ疎開しているあいだに空襲で焼失してしまったが、戦争が終わるとすぐにバラックを建てて再開する。終戦直後の食糧難の時期も、客がカネの代わりに米や砂糖などを持って来てくれるおかげで、食べるものには困らなかった。

華やかな廓で育ったおかげか、歌丸は子供のころから陽気な性格で、ラジオで聴いて覚えた落語をよく学校で披露していた。雨で体育の時間が自習になったとき、教師に言われて落語をやったところ大ウケして、以来、ほかのクラスからも声がかかるようになった。小学4~5年のころには「噺家になる」と言って、ショックを受けた祖母が2日間寝込んだという。小学校を出たらすぐにでも噺家になりたかったが、結局、祖母から「中学までは出てくれ」と懇願され、中学に進学する。

このころ、祖母は店を畳むことを決め、歌丸を縁故の家に1年あまり預けた。彼が中学3年になって戻ると、すっかり家は片付いていた。祖母はまた、孫の夢を後押ししてやろうと、NHKに勤務する遠い親戚に相談していた。親戚に紹介されたNHKの演芸班の人から、古今亭今輔(5代目)師匠なら面倒見がいいと勧められたので、歌丸があいさつに赴くと、あっさり入門が許される。

こうして椎名巖少年は、まだ中学在学中の1951年11月に今輔門下に入り、初日から噺の稽古をつけてもらった。ほどなくして「古今亭今児」の名を与えられる。卒業後の52年4月、正式に日本芸術協会(現・落語芸術協会)の前座となり、上野鈴本演芸場で初高座を勤めた。演目は、今輔師匠の自作落語『峠の茶屋』。師匠が得意としたおばあさんの出てくる噺だった。

じつはこの3カ月前、彼はある神社で開かれた落語会でこの噺をして爆笑をとっていた。ただ、これは落語がうまかったからではなく、丸坊主の中学生がだぶだぶの着物でおばあさんのモノマネをすればおかしいのは当然だった。それでも師匠に「どうです、気持ちいいでしょう」と言われたときは本当にうれしかったという(桂歌丸『恩返し』)。こうして落語家として第一歩を踏み出した翌年、それを見届けるように祖母が亡くなった。

師匠との行き違いから一門を飛び出す

師匠の今輔からは噺だけでなく、寄席の出囃子や噺の途中の効果音などに使う太鼓の叩き方なども丁寧に教えてくれた。また、「歌舞伎を観て、セリフのやりとり、 ときっかけを頭に入れておくと、落語でうんと参考になる」とアドバイスされたこともあった。

新作を得意とした今輔だが、歌丸には「土台は古典」と古典落語もたくさん教えてくれた。『 毛氈 もうせん 芝居』『芝居風呂』といった歌舞伎の所作が入った芝居噺のほか、「近代落語の祖」と呼ばれる明治時代の落語家・三遊亭円朝の『江島屋騒動(鏡ヶ池操松影)』を、途中で太鼓の鳴り物をどう入れればいいのか知っておくよう、噺そのものを教えてくれたこともあった。どれも前座から二つ目になろうかという新米落語家には難しすぎる噺だったが、今輔は「いつかできるようになる、覚えておいて損はない」と教えてくれたのだ。実際、それはのちのち歌丸にとって大きな財産となった。

前座から二つ目に昇進したのは入門4年目の1954年11月。その3年後には結婚する。相手は、のちに『笑点』でもたびたびその名前が出てきた富士子夫人だ。しかし、このころから今輔との関係がこじれ始める。歌丸は新作より古典が面白くなり、寄席でも古典ばかりやっていた。いずれも今輔から教えてもらった噺とはいえ、「新作落語の旗手」と呼ばれていた師匠には面白くなかったらしい。

そもそも結婚したのも、師匠が嫁を世話してやるというのを、すでに相手がいると断ってのことだった。実際には相手などいなかったのだが、師匠が紹介してくれた女性が気に入らなかったので、嘘をついたのだ。結局、それからすぐ実家の近所の人に相談すると、富士子夫人を紹介され、一緒になった。演目や結婚の件ばかりでなく、このほかにも師匠と彼のあいだには気持ちの行き違いが重なっていく。

このころ、芸術協会には噺家がだんだん増えていた。そのため、同じ二つ目でも古株には高座があったが、歌丸のような若手には演じる機会がなかなか巡ってこなかった。親席(主要な寄席)に出るのは年に1~2回程度で、出演するのはたいがいが 端席 はせき と呼ばれる二流、三流の寄席、しかも出番の時間も早かった。

そうした待遇への不満が募り、ついには二つ目仲間5~6人で集まってストライキを計画。協会に寄席の出番を増やすよう要求して、聞き入れられなければ外へ飛び出すという話になった。だが、いざ決行しようとすると、仲間はみんな怖気づいて逃げ出してしまう。気がつけば歌丸一人が悪者になっていた。

師匠との関係はすでに後戻りできないところまでこじれており、歌丸はすっかり行き場を失う。結局、1958年から2年半ほど、落語界からほぼ離れて浪人生活を送った。この間、夫人と一緒に化粧品のセールスをやったが、何度も洗顔クリームとポマードを間違えて売るなど失敗ばかりで、1年ほどでやめている。友人の誘いでメッキ工場にも勤務したが、重労働にすぐ音を上げてしまった。

今輔からは直接、破門を言い渡されたわけではなく、今児の名も取り上げられなかった。それは名前さえあれば、地方興行でも何でもやって食っていけるだろうという師匠の腹づもりだったが、当時の彼には気づく由もない。

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この連載について

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一故人

近藤正高

ライターの近藤正高さんが、鬼籍に入られた方を取り上げ、その業績、人柄、そして知られざるエピソードなどを綴る連載です。故人の足跡を知る一助として、じっくりお読みいただければ幸いです。

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コメント

yomoyomo "歌丸は最初の師匠の古今亭今輔から「苦労しなさい。ただ、何年かして振り返ってみたときに、その苦労を笑い話にできるように努力しなさい」と言われていたという。その教えを守ってか、晩年にいたって病気すらも笑いに変えてみせたのである。" https://t.co/NnwXyZUZSZ 3ヶ月前 replyretweetfavorite

almost_everyday こんなの泣いてしまう | 3ヶ月前 replyretweetfavorite

marukocat (´;ω;`)こういうの、亡くなる前に読みたかったよなあ… https://t.co/NJ0NDd2WT4 3ヶ月前 replyretweetfavorite

donkou ケイクス連載、更新されています。今回は歌丸師匠について『笑点』だけでなく、さまざまな面から振り返ってみました。 3ヶ月前 replyretweetfavorite