『ジャスト・フレンズ』という失恋を歌った有名なジャズ・スタンダードがある。今はもう「ただの友達」で、「二度と以前のような恋人同士には戻れない、キスなんてない……」という切ない歌だ。
おそらく全世界の失恋した人たちがこの曲をバーやクラブでリクエストしてきたのだろう。たくさんのジャズ・シンガーがこの曲を歌っているが、私のバーではプリシラ・パリスというお人形のような綺麗な顔をした白人女性歌手が歌う『ジャスト・フレンズ』をいつもかけている。
彼女がこの曲を歌うとどうも男性は勘違いしてしまうような気がする。もしかしてもう一度、彼女に「好きだ。やり直そう」と言えば戻ってきてくれるんじゃないかと。プリシラの歌声はそんな男性を優しく許してくれそうでとても危ない。
秋が深まり始めた十月。その夜は九時を過ぎてもお客様がまったくこない日で、私はこのプリシラ・パリスの切なくて甘いアルバムを何回もかけていた。秋の切なさとプリシラの甘い声はよくあう。
そこに「マスター、寒くなりましたね」と言いながら、斉藤さんという常連の男性が来店した。斉藤さんは三十代前半、近くのIT系の会社に勤めている。いつも黒っぽいスーツに赤系の色のネクタイを締め、坊主頭で背は高く、声が大きい。いわゆる憎めないタイプだ。斉藤さんはいつも通り、入ってすぐのカウンターの一番端に陣取り、「今日のビールは何ですか?」と聞いた。
十月はメキシコ産のネグラ・モデロを出している。
十九世紀半ばに、炒って赤くした麦芽を使った「ヴィエナ」という赤茶色のビールがオーストリアにあったが、第一次世界大戦でオーストリア=ハンガリー帝国が敗れた後、この「ヴィエナ」は衰退していった。
しかし、オーストリア・ハプスブルク家が統治していたメキシコではこの「ヴィエナ」というビールが長く受け継がれた。
私は斉藤さんの前にこのネグラ・モデロを置き、「ハプスブルク家の忘れ形見のようなビールです。実はメキシコ料理のスパイスにすごくあう情熱的なビールなんです」と説明した。
斉藤さんはそのビールの香りをとり、グラスを傾けゴクリと音をたてて流し込んだ。
「こくがあってしっかりしてておいしいですね。今日はもうビールをたっぷり流し込んで酔っぱらおうって決めたのに、このビールだと上品に酔えそうです」
「突然、足にきたりするから気をつけてくださいね。でもどうして今日は酔っぱらいたいんですか?」
「マスターにそれを話しにきたんですよ。まあバカな男の話を聞いてください」
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