「おや、返事をしてくれないのかい。でも、聞いているんだろう。なにか話してくれよ」
コーギーは答えられなかった。
「ふむ。まあ、きみも守秘義務があるだろうからね。おそらく私の想像どおりなのだろう。その上で白野くんに聞きたいんだ。生活できるだけの給料は、灰江田からもらえているのかい」
橘は、悪魔の誘惑を思わせる声で問う。
生活できているか──。コーギーは自分の部屋の様子を頭に浮かべる。衣食住はどうにか満たしているが、趣味に使える金はわずかしかない。ぎりぎり暮らせているが余裕はない。
「なあ、白野くん。うちに来ないかい」
橘のいきなりの提案に、コーギーは仰け反りそうになる。
「もし、白鳳アミューズメントが権利を持っていないのならば、うちでその権利を取って、白野くんが移植をしてリリースするというのは、どうかなと思っている」
コーギーは、あっと言いそうになる。
「白野くん。きみの活躍は評価に値する。正直なところ灰江田には勿体ない。うちと取り引きしているときに、スカウトすべきだったと反省しているんだ」
橘の優しげな物言いに、コーギーは困惑する。
「どうだい。うちで働く気はないかい。もちろん正社員として採用する。ゲーム開発の経験者として相応しい給料を用意する。灰江田の会社にいても儲からないだろう。すぐに返事をくれとは言わない。突然の話だろうからね。私だって、それぐらいは承知している。連絡はこの番号に折り返してくれればいい。電話がない場合は、こちらからまたかける。是非うちに来て欲しい。グリムギルドは優秀な開発者を、いつでも歓迎している」
通話が終わったあと、コーギーは額の汗を拭いた。
「どうしたのコーギーくん。汗びっしょりよ」
ナナが怪訝な様子で尋ねてくる。
「いや、なんでもありません」
コーギーは急いでコーヒーを飲み、二階の事務所に逃げ込んだ。
◇
アパートの部屋に戻ってきた。ドットイートから徒歩十分。四畳半、風呂なし、トイレ共同、家賃三万円の賃貸物件である。
コーギーは、電灯のスイッチをつけずに流しに足を運ぶ。蛇口をひねり、コップに水を入れて一杯飲んだ。床にはゲーム機やソフトが無数に転がっている。その数は灰江田の会社に入ってから、わずかしか増えていない。給料が低すぎるのだ。しかし賃上げの要求も難しい。社長である灰江田も金がないため、ドットイートの飲食をツケでおこなっている有様だからだ。
コーギーは無言のまま布団を敷いて横になる。今日は銭湯に行くのはいいや。そう思いながら天井を見上げた。室内は暗いままだ。四角い傘を被った蛍光灯から、紐がぶら下がっている。コーギーは体から力を抜き、ぼんやりと考える。
橘からの電話。橘には恨みこそあれ恩などない。逆に灰江田には大きな恩がある。灰江田に会うまで、コーギーはずっと孤独な旅を続けていた。流浪の末にたどり着いた相手。灰江田は自分にとっての光だった。コーギーは、迷い子になった自分の人生を振り返る。
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