今夜はバート・バカラックの『アイル・ネヴァー・フォーリン・ラブ・アゲイン』をかけることにした。タイトル通り、失恋した女性の気持ちを歌う曲で、曲調はとても明るくて可愛いのに、どこか切なさがひっかかる。たぶん泣きながら一緒に歌った女の子が世界には何十万人もいて、その彼女たちの気持ちがこの歌に染み込んでいるのかもしれない。もう二度と恋なんてしない。いいタイトルだ。
九月、昼の間はまだまだ暑いが、夜になると少しだけ涼しい風が渋谷の街を通り抜ける。私が表に看板を出してライトを灯すと、近くの出版社で働いている桃子さんがこちらに向かって大きく手を振るのが見えた。
桃子さんは年齢は二十五歳くらい、身長は百五十を少しこえたくらいだろうか。個性的なメガネに帽子をかぶり、前髪は眉毛の上でそろえている。いつも笑顔が素敵で、私がその笑顔をほめると、顔を真っ赤にしてうつむいてしまう。
桃子さんはカウンターの真ん中に座るなり「モヒートをください」と注文した。
「まだまだ暑いからモヒート飲みたくなりますよね」と桃子さんに言った。
「私、お酒わからないんで、何でもいいんですけど、モヒートってさっぱりしてるじゃないですか。なんかついつい頼んじゃうんです。けどモヒートってどういうお酒なんですか?」
「モヒートはキューバのカクテルです。ミントとライムとお砂糖とホワイトラムをクラブソーダで割ったものです。ヘミングウェイが好んだというので有名ですね」
「出た、ヘミングウェイ。私、出版社に勤めているのに『老人と海』しか読んでないんです」
「私は職業柄、ヘミングウェイの作品の中のお酒の使い方を楽しむために読んでいます。この登場人物にはこういうお酒を飲ませる、こういうシチュエーションではこういうワインを開けるといった参考になることがたくさんあります」
「登場人物が飲むお酒を知るのって楽しいんですか?」
「すごく楽しいですよ。毎日、私はお客様にお酒を出しているわけですが、この方はこういう服装でこういう髪型で、こういう話し方で、こういうお酒を注文するんだと、日々、考えるきっかけになります」
「人間観察が好きなんですね」
「お客様の服装や話し方で、先回りしてお客様の好みを判断しておこうという感覚でしょうか」
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