ヴァレンタインのチョコレートが街中で売られ始めた二月のまだ寒い夜。
私はダイナ・ショアがアンドレ・プレヴィンのピアノで『マイ・ファニー・ヴァレンタイン』を歌っているレコードを棚から出した。
この曲は女性が愛する男性のことを歌う、こんな内容だ。
「ねえ。大好きな私のヴァレンタイン。ずっといて。 だってあなたさえいてくれれば、私にとっては毎日がヴァレンタインデイなんだから」
幸せいっぱいなのに、まるでこれからの二人の別れを予感しているかのような切ない歌だ。
この曲がかかると、扉が開き、近くの広告代理店に勤める松山さんという女性が入ってきた。松山さんは年齢は四十歳だが三十五歳くらいに見え、瞳は大きく、ほりの深い整った顔をしている。コートを脱ぐと、Vネックのオリーブ色の薄手のセーターのせいで、胸のふくらみと対照的な華奢な鎖骨がよくわかる。
彼女は私がすすめるまでもなく、カウンターの方にコツコツとヒールの音を響かせて歩き、真ん中の椅子に座ると、ゆっくりと足を組んだ。そして低くて艶のある声でこう話し始めた。
「今日は本当に疲れました。マスター、一条かおりのあのディズニーランドでのデート事件知ってますか? 一条かおり、ずっと恋愛スキャンダルなんてなかったのに、一般の男性とディズニーランドでデートしたらしいんです。相手の男性の素性が今ネットで詳しくさらされているんですけど、ホント普通のサラリーマンで高校の同級生らしいんです。どうして一条かおりが変装もしないであんな男性とデートしたんだろうってみんな大騒ぎで。
私、一条かおりが出てる口紅のCMの担当をしてて、口紅のイメージがどうなるかってもう心配で心配で、今までずっと働きっぱなしでした。でも、彼女も一人の女性なんですよね」
「ああ、私もその騒動、見ましたよ。私にはすごく素敵な男性に感じられましたがね。一条かおり、幸せになるんじゃないですか」
「そうですかね。私も疲れたのかチョコレートが食べたくなってしまって。たしかおいしいガトーショコラがありましたよね。ガトーショコラにあうお酒も一緒にいただけますか?」
「でしたらラムなんてどうでしょうか」
「ラムですか。『宝島』で海賊の船長が飲んでいたイメージしかないんですけど」
「ラムはカリブ海でよく作られているんです。だから海賊をイメージするんですかね?」
「カリブ海ってキューバとかジャマイカとかですか?」
「ええ。ラムは宗主国の人間が好むように作られるんです。例えばイギリスでは海軍がラムを消費するのでジャマイカでは海軍向けのパンチのきいたラムが作られます。
ハイチではフランス人が好むブランデーのような香りの華やかなラムが作られます。このハイチのラム、バルバンクールの十五年ものは世界中のいいバーには必ず置いてなくてはならないラムだと言われています。このバルバンクールでしたら、ガトーショコラにぴったりあいますよ」
「ハイチのラムとガトーショコラですか。試してみたいですね。それをいただきます」
私は香りをゆっくりと楽しめる大きなチューリップ形のグラスにバルバンクールを注ぎ、ガトーショコラと一緒に彼女の前に出した。
彼女はガトーショコラを少しだけ口に入れ、それからバルバンクールにそっと口をつけた。
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