21 デカルトは三叉路で「迷う」
私はこの決断の堅さをこそ徳とすべきだと考えています。かつて徳をそのように説明した人がいるとは寡聞にして知りませんが。 ―デカルトから王女エリザベトへの手紙 (一六四五年八月四日)
「三叉路」に立たされた空腹の驢馬の選択
父を殺めて母を娶るという神託が知らぬ間に実現していることに気づき、その恐るべき真実に耐えられずに自らの眼を潰した棄て子の話をご存じでしょうか。
これは、紀元前四三〇年頃のギリシアで上演された悲劇作家ソフォクレスの最高傑作『オイディプス王』の粗筋です。
私は大学一年生の時にこの作品を読んで以来、折に触れて読み返し、そのたびにある箇所で立ち止まっては物思いに耽ってしまうのです。つまりオイディプスが、自分を棄てた父と知らずに一人の老人とその付き人を皆殺しにする現場を描いた箇所です―目撃者一名を除いて。
この作品を読んだ方はご存じでしょう、殺害現場は、オイディプスがあの神託をデルフォイの神殿で聞いてから踵を返して辿り着いた三叉路です。そこで彼は、別の道からやはりデルフォイの神殿に別の神託を聞くべくやってきた老人と鉢合わせ、争いになった。こうして、オイディプスに下された神託の前半部つまり「父」殺害が実現してしまうわけです。
それにしても、殺害現場が三叉路とは、なかなかに意味深ではないでしょうか。
大学一年生だった私に『オイディプス王』の読み方を教えてくださった、西洋古典学が専門の川島重成先生は、ご自身の読み方を披露なさった『アポロンの光と闇のもとに―ギリシア悲劇「オイディプス王」解釈』(三陸書房、二〇〇四年)のなかで、この殺害現場のことを「運命の三叉路」(五頁)とか「危険一杯の隘路」(一〇二頁)と述べています。
そこで自分の運命が決まる、というか、自分の運命がそこで露わになるような、狭く険しい―「隘路」とはそういうことです―三筋の道の合わさるところとは、川島先生の教えを受けるも専門家ではない私が自分なりに解釈するのであれば、オイディプスが「人生の岐路に立たされている」ことを暗示したものではないか。
岐路とは、一本道が二本に分かれる地点のこと、つまり三叉路です。そしてこの地形に着想を得て、将来が決まる重大な局面に置かれた人のことを「人生の岐路に立たされる」と表現するのです。
人は往々にしてこの「三叉路」で、あれかこれか迷う。それでもどちらかを選んで先に進む。あるいは引き返す。そして、オイディプスが死ぬまでその罪悪感に苦しめられたように、別の選択をすればよかった、つまり別の道を歩めばよかったと悔いる。
cakesは定額読み放題のコンテンツ配信サイトです。簡単なお手続きで、サイト内のすべての記事を読むことができます。cakesには他にも以下のような記事があります。