東映と石ノ森章太郎 ~仮面ライダーに始まる石ノ森ヒーロー①~

2010年代に入ってウルトラシリーズ、仮面ライダー、ヤマト、ガンダム、あるいは「ベルばら」「ポーの一族」等が次々と40、50周年を迎えている。これらは単に昔のものとしてあるだけでなく現役のコンテンツとして新作が発表され、映像化、舞台化されている。逆算すれば分かるが、大半は1970年代に始まった。1960年に生まれ、アニメ、特撮ものを最初期からTVで見ていた中川右介(作家、編集者)が「リアルタイムの記憶を基にして目撃譚」として描くサブカル勃興史。

記憶を辿りながら書きますが公にするからには、記憶にだけ頼り、間違ったことを書いてはいかないので、改めて調べ事実確認をして書きます。歴史家的視点と当時の少年視聴者・読者としての記憶とを融合させ「読者・視聴者としてサブカル勃興期を体験した者が書く歴史」を提示したいと思います(筆者)。

1971年4月2日(金)夜7時に『帰ってきたウルトラマン』の放映が始まると、その翌日の3日(土)夜7時30分からは『仮面ライダー』が始まった。この年の4月第1週は日本の少年文化史上、最重要の週と言える。

『仮面ライダー』は現在、TVシリーズとしては第29作にあたる『仮面ライダービルド』が放映されているが、映画や漫画を含めたすべてが「原作・石ノ森章太郎」となっている(当時は「石森章太郎」だったが、ここでは「石ノ森章太郎」に統一する)。『仮面ライダー』のヒットで変身ブームが起き、石ノ森章太郎が関わったものだけでも『変身忍者嵐』『人造人間キカイダー』『イナズマン』『ロボット刑事』、スーパー戦隊シリーズの原点である『秘密戦隊ゴレンジャー』までもが、この1971年から1975年までの5年の間に生まれている。

これらのシリーズは東映のテレビ部が制作しているので「東映ヒーロー」とも称されるが、「石ノ森ヒーロー」でもある。共通するのは「等身大のヒーローが変身して戦う」ということだ。それぞれの作品のストーリーは脚本家が考えており、基本設定のどこまでが石ノ森章太郎のアイデアなのかは、作品によって異なる。テレビ映画は集団で創作するものだから、ひとりですべてを生み出しているわけではない。また、コミカライズも、石ノ森章太郎本人が手がけたものとそうでないものとがある。

ここでは、『仮面ライダー』以下の一連の作品を、あくまで「石ノ森章太郎作品」として、振り返る。

●スポ根から覆面のヒーローへ

『仮面ライダー』誕生の経緯は多くの関係者の証言や回想がさまざまな本や雑誌、ムック、あるいはネット上にあるので、だいぶ明らかになっている。

『仮面ライダー』放映開始の半年前となる1971年の夏から、この企画は動き出した。現在、テレビ局のネットはTBS系列に大阪の毎日放送が、テレビ朝日系列に大阪の朝日放送が属しているが、1975年4月まではTBSと朝日放送、NET(後のテレビ朝日)と毎日放送とが同一ネットにあった。

土曜日の7時30分から始まる枠は、大橋巨泉が司会を務めたTBSの『お笑い頭の体操』が強く、NET・毎日放送は苦戦していた。この枠はNETは制作せずに毎日放送が作ったものを流しており、71年夏は『魔女はホットなお年頃』というドラマが放映されていた。『奥さまは魔女』の日本版のようなものだ。

毎日放送はこの「土曜7時30分枠」をどうにかしたいと考え、東映のテレビ部に相談した。当時の子供たちの間では「スポ根もの」がブームだったので、『柔道一直線』を制作していた東映を相談先として選んだのだ。これを受けて、東映テレビ部の渡邊亮徳部長と平山亨プロデューサーはスポ根ものをリサーチしたが、「いまは高視聴率だが、すでに飽和状態にあるから、他のものにしたほうがいい」との結論になった。70年夏の時点で、テレビ映画としては『柔道一直線』『サインはV』、アニメで『巨人の星』『タイガーマスク』『アタックNo.1』などが放映されており、半年後の71年春までブームが続いているかどうかの保証はない。

東映子会社の東映動画が『タイガーマスク』を制作していたこともあり、平山たちは覆面のヒーローものがいいのではと思い至った。当然、『月光仮面』も念頭にあっただろう。平山はこの時点で、脚本家の上原正三、市川森一、伊上勝らとディスカッションしながら、ヒーローのキャラクターや物語の背景を作っていく。毎日放送へ出す企画を練っていった。上原と市川は東映テレビ部制作の『柔道一直線』のシナリオを書いていたので、その流れだった。しかし、この二人は円谷プロダクションがウルトラマンの新作(『帰ってきたウルトラマン』)を制作すると決めた70年暮れの時点で、この企画から降りてしまう。

石ノ森章太郎がどの段階で加わったのかは、何月何日と断定できる史料は見つからなかった。早い段階から、石ノ森章太郎のマネージャーの加藤昇が渡邊に接していたようではある。東映にとって、石ノ森章太郎はそう遠い所にはいなかった。アニメ部門である東映動画で、石ノ森章太郎作品がいくつもテレビアニメ、劇場用アニメになっていたのだ。

●東映と石ノ森章太郎

東映と石ノ森章太郎との関係は、『仮面ライダー』プロジェクトが動き出した1970年の10年前となる1960年に始まっている。石ノ森章太郎は劇場用長編アニメ『西遊記』に関わっていたのだ。

東映がアニメーションの制作に乗り出すのは1956年のことで、アニメ制作会社「日動映画株式会社」を買収し、「東映動画」(現「東映アニメーション」)としている。最初の長編アニメは1958年の『白蛇伝』で、これは日本初の長編カラー・アニメでもあった。中国の民話を題材にしたのは西洋ものではディズニーに敵わないからだった。続いて1959年には、日本初の「シネマスコープ版長編アニメ」として『少年猿飛佐助』が制作され、60年に第三作として『西遊記』が企画された。

そのころ、手塚治虫の『ぼくのそんごくう』(のち、『ぼくの孫悟空』)が「冒険王」での連載が完結した。東映はこの漫画をもとにしてアニメをつくろうと手塚にアプローチ、結果として手塚は「原作」ではなく「演出」「構成」として関わることになった。虫プロダクションが設立されるのは61年なので、手塚にとっては、この『西遊記』がアニメにかかわった最初となる。

しかし、手塚は漫画の連載をいくつも抱えていたため、アニメの打ち合わせにも出席できなくなり、ラフなストーリーボードを描くのがやっとだった。そこで、手塚のそばにいた石ノ森章太郎と手塚のアシスタントだった月岡貞夫が、代理のかたちで東映に派遣された。

石ノ森章太郎はすでに漫画家としてデビューしていたが、まだ大きなヒット作がなかった。『西遊記』でアニメに関わると、漫画家を続けるかこのままアニメの世界に入るか悩み、いったんは東映動画への入社を希望した。結局、漫画を続けることになるのだが、東映動画の白川大作から「漫画家として成功したら、その作品をアニメにしよう」と激励の言葉をもらっている。一方の月岡は、この『西遊記』がきっかけで東映動画に入社することになるが、後に虫プロダクションに入っている。

『西遊記』は60年8月に公開されたが、その頃、石ノ森は創刊2年目の「少年マガジン」に『快傑ハリマオ』を連載をしていた。これは手塚が石ノ森に紹介した仕事だった。山田克郎の小説『快傑ハリマオ』がテレビ映画になるので漫画を連載しないかと、手塚治虫を通して来た仕事だった。テレビ映画を制作するのは『月光仮面』で当てていた宣弘社である。手塚は「少年サンデー」が創刊されると週刊誌ジャンルでの専属契約を結んでいたため、「少年マガジン」には描けないものの、名前を出さずに協力しようと、連載初期の『快傑ハリマオ』は手塚が下書きを描いていたという。

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