一故人

西城秀樹—ステージ以外でも貫いた「ロックな生き方」

スターとして一世を風靡し、その後も病魔と戦いながら活躍を続けた、歌手・西城秀樹。今回の「一故人」は、彼の生き様と魅力について、その人生をたどりながら紹介します。

歌謡界にロックを持ちこむ

1990年代初め、歌手の西城秀樹(2018年5月16日没、63歳)を再評価する動きがにわかに起こった。1972年のレコードデビューから20周年を迎えようとしていたころである。1991年には、テレビアニメ『ちびまる子ちゃん』のエンディングテーマ「走れ正直者」を歌い、ヒットした。

この曲は、同アニメの原作者であるマンガ家のさくらももこ(作詞も彼女)の《元気な正直者を表現する迫力はヒデキの歌唱力でしか出せない》とのラブコールから実現したものだ(『週刊現代』1991年5月18日号)。さくらは、主人公のまる子がそうであるように、小学生のころから西城のファンだった。この呼びかけに対し、西城は子供たちが喜んでくれればと軽い気持ちで引き受けたところ、自分と同年代の主婦層などにも受け入れられて驚いたらしい。

このころにはまた、歌謡曲の世界に本格的なロックを持ちこんだパイオニアとして西城を評価する声も上がった。イラストなどで活躍し、自らロックバンドも組んだみうらじゅんは、かつて特注のスタンドマイクを振り上げる西城のアクションを見たとき、思わず「ロッド!」と叫んだと明かしている。フェイセズというバンドに在籍したころのロッド・スチュワート(イギリスの歌手)にそっくりだったからだ。みうらはこのほか、西城の歌い方にアメリカの歌手ジャニス・ジョプリンやイギリスの歌手ロバート・プラントの影響を見たという(『婦人公論』1991年5月号)。

事実、西城は60~70年代の洋楽に多大な影響を受けており、スタンドマイクを使ってのアクションについては、《ジェームス・ブラウンとかロッド・スチュワート、あの辺の雰囲気をもっとそういうことを知らない人達に伝えたいというのがありました》とのちに説明していたし(『宝島』1991年5月24日号)、ジャニス・ジョプリンの全身から絞り出すような歌声には衝撃を受け、《私の唄の基本として胸の中に刻み込まれている》と語った(『03』1991年1月号)。

もともとアイドルとしてデビューした西城は、同年代の歌手である野口五郎と郷ひろみとともに「新御三家」と称された。だが、当時から一番新しいことをやっていると思っていた彼には、自分がアイドルだという意識はなかったらしい。ライブも、テレビでは歌わない洋楽をカバーするなどロック色の強いことで知られた。

1974年には大阪球場でコンサートを開催。これが日本人初のスタジアムコンサートで、以後10年続いた。このほか、ラジオで「懐中電灯を持ってきて」と呼びかけたのが始まりだというペンライトや、クレーン車やレーザー光線を用いた派手な演出など、現在コンサートでおなじみのものには、西城が日本で初めて採り入れたとされるものが少なくない。

西城は同年代や下の世代のミュージシャンにも影響を与えた。70年代後半に「ロック御三家」と呼ばれたChar・世良公則・原田真二は、西城が道を切り開いていたからこそテレビの歌番組に出演し、広く人気を集めた。また、「走れ正直者」を収録したアルバム『Mad Dog』(1991年)には、奥田民生やサエキけんぞうが楽曲を提供している。ちなみに奥田は西城と同じく広島出身で、中学の後輩にあたる。

日本の歌謡曲、そしてロックやポップスに大きな足跡を残した西城秀樹ははたしてどんなバックグラウンドから登場したのか。まずはその生い立ちを振り返ってみたい。

父から猛反対されながら歌手をめざす

西城秀樹、本名・木本龍雄は1955年4月、広島市に生まれた。父は自動車タイヤの卸商や雑貨店、輸入品を扱う店など手広く事業を行なっていた。典型的な雷親父で、怒ってちゃぶ台をひっくり返したり、子供が悪さをするとスリッパでぶったり押し入れに閉じこめたりしたという。このあたり、後年、ホームドラマ『寺内貫太郎一家』(1974年)で、息子役の西城としょっちゅう取っ組み合いのけんかをしていた小林亜星扮する雷親父を彷彿とさせる。

その父は一方でジャズが大好きで、当時まだ珍しかったステレオをいち早く購入し、一日中、レコードを流していた。幼いころからそれを聴いて育った西城が音楽好きになるのも当然だろう。父は自分でもギターを演奏し、子供たちにも積極的に楽器を習わせた。西城はバイオリン、クラシックギターと習ったものの、なかなか上達せず、結局いやになってやめてしまう。

小学3年になったころ、アメリカのバンド、ベンチャーズの影響でエレキギターがブームとなる。西城もさっそく3歳上の兄と一緒に始めたが、途中で飽きてきた。そのとき出会ったのが、音楽教室にあったドラムセットだ。面白がって叩いているうちに、「これしかない!」と思った彼は、練習に打ち込むようになる。手首を強くしたい一心で、ビール瓶に砂を詰めて、それをスティック代わりに持って鍛えるということもした。ビートルズやローリングストーンズにも強い影響を受け、ミュージシャンになりたいとの思いを募らせていく。小5のときには、兄とその先輩たちと「ベガーズ」というバンドを結成、ドラムとコーラスを担当した。

中学2年に進級すると、ベガーズのリーダーだった兄が卒業。新たに仲間を集め「ジプシー」というバンドを結成した。広島市内でジャズ喫茶の支配人をしていた叔父から、店でアルバイトとして演奏しないかと声をかけられたのは中3のときだ。年齢を偽り、高校生というふれこみで働き始めた彼は、東京からやって来るミュージシャンと交流する機会を得た。

そのうちにドラムよりも歌うほうがバイト料は高いと知り、ボーカルに転じた。すると、店に出入りしていた芸能界や音楽業界の人たちから「歌手になったほうがいい」とたびたび勧められるようになる。中学3年の夏休みには、叔父の知人だったバンドマンの誘いで上京し、芸能事務所をまわった。そこでも歌手になるよう勧められ、ついに歌手になる決意を固める。

だが、これに父が「趣味でやるのはいいが、歌手で食っていくのはおかしい。まともな仕事に就くべきだ」と猛反対し、あげくのはてには、西城の両手足を縛って押し入れに閉じこめてしまう。どうにか母が、父には自分から話しておくからと縛った紐をほどいてくれ、東京に旅立つことができたものの、父はそれから20年近くも許してくれなかったという。

上京した西城は、小さな芸能事務所の経営者の家に住み込みながら、歌や踊り、演技のレッスンを受けた。同時に明治大学附属中野高校に通い、卒業している。最初に入った事務所は結局、デビューを目前にして、経営者から自分は男のタレントを手がけたことがないとの理由で、芸映という大手事務所を紹介され、移籍した。

事務所社長から勧められ、28歳で独立

こうして1972年3月、17歳になる前月にデビューシングル「恋する季節」が発売され、歌手・西城秀樹が誕生した。ディレクターのロビー和田(和田良知)は、洋楽育ちの彼のため、斬新なアレンジにより、アメリカ的に演出したという(『週刊朝日』2006年11月17日号)。4曲目までは鳴かず飛ばずだったが、デビューから1年が経った73年5月にリリースした5曲目の「情熱の嵐」でブレイク、その名は全国区となった。続く「ちぎれた愛」はオリコンのシングルチャートで初めて1位になり、日本レコード大賞の歌唱賞も受賞した。同賞には翌74年にも「傷だらけのローラ」で選ばれ、連続受賞となる。

アイドル路線から大きな転機となったのは、1976年、「君よ抱かれて熱くなれ」で初めて阿久悠に作詞してもらったときだった。西城は次のように振り返っている。

《アイドルとしてだけではなく、長期的展望で西城秀樹像の核になる部分を阿久さんの歌詞は作ってくれました。ステージの上では華も必要な非現実な世界を求められる。でも、その前後の人生をどう生きていくか、その生き様こそがスターとして求められるときが来る。アイドルというサングラスをはずしても素敵だといわれる生き方を探しなさい、そんなテーマを与えられた気がしました》(『潮』2006年4月号)

阿久から提供された詞は10曲を数え、なかでも「ジャガー」「若き獅子たち」「ブルースカイブルー」は、のちのちまでコンサートで必ず歌う大切な曲となった。

西城を国民的スターに押し上げた「YOUNG MAN(Y.M.C.A)」は、アメリカのボーカルグループ、ヴィレッジ・ピープルの「Y.M.C.A」のカバーだ。この曲はもともと1979年正月のコンサートで英語の歌詞のまま歌う予定だったのを、リハーサルで急遽、日本語にしようということになり、当時のマネージャーの 天下井 あまがい 隆二が1時間で歌詞をつけたという。レコード化の予定も当初はなかったが、コンサートで大きな反響があり、西城の提案で2月の新曲を差し替えて発売することになる。周囲からはカバーではなくオリジナルでなければと反対されたが、彼が自らプロデューサー宅を訪ね、説得したという。

また、スケジュール的にもかなりギリギリだったため、西城はレコードのプレス工場にも赴き、ビールケースの上に乗って工員たちに歌って聞かせ、「みなさん、徹夜作業になりますが、お願いします」と頼みこんだ。「YOUNG MAN」は結果的に、年間80万枚を売る大ヒットとなり、彼は《ヒットというのは他人がつくるんじゃない、自分でつくるものなんだと強く感じました》と、後年語っている(『週刊文春』2013年7月11日号)。

1983年には再び大きな転機が訪れた。所属していた芸映の社長から「君も28歳になって大人になったのだから、男として勉強してみないか」と独立を勧められたのだ。タレントが独立を希望して事務所とトラブルになるケースは多々あるが、事務所側から促されたのは異例だろう。しかも社長は関係各所に「この独立は自分からの申し出なので風当たりを強くしないでほしい」と話して回ってくれた上、何かあればサポートも約束してくれた。

こうして個人事務所を設立した西城は、過労による病気で入院したり、頼りにしていた人に騙されたりもしながら、必死になって財務や会計について勉強し、6年目ぐらいでやっと軌道に乗せた。冒頭に書いたような再評価ブームが訪れたのは、ちょうどそんなころだった。

2度の脳梗塞を乗り越えて

「走れ正直者」がヒットしたころ、36歳になっていた西城はある雑誌の取材で「年齢からいっておじさんですよね」と言われ、こんなふうに反発している。

《いつまでも兄貴的存在でいたいですよ。ボクと同年代の大人を見ていると、格好いいのが少ない。常識人ばかりです。なぜ、もっとパワーが、若さがないのかと思う。みんなくたびれちゃってね。ハキを出せよといいたいです》(『週刊読売』1991年9月8日号)

西城自身は、いつまでも身体の若さを保ち、ステージで激しいアクションを続けていくためにもトレーニングを欠かさなかった。だが、それが裏目に出る。2003年、ディナーショー出演のため訪れていた韓国・済州島で脳梗塞が発症した。減量に熱中するあまり、トレーニング中にほとんど水分補給しなかったのが災いしたと、彼はのちに説明している。

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この連載について

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一故人

近藤正高

ライターの近藤正高さんが、鬼籍に入られた方を取り上げ、その業績、人柄、そして知られざるエピソードなどを綴る連載です。故人の足跡を知る一助として、じっくりお読みいただければ幸いです。

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コメント

applemint53 https://t.co/NE9fLPr7a1 11ヶ月前 replyretweetfavorite

junchama58 まとめ記事のような内容ですが・・・ で読める記事とのことです。 #西城秀樹 11ヶ月前 replyretweetfavorite