長机に座る秋山明良の前には、長蛇の列ができていた。
右手には合紙を渡してくれる女性編集者がいて、左手にはこの大型書店の文芸書担当者がいた。まるで流れ作業のように、次から次へと表紙を開かれた真新しい本が、秋山の前に置かれた。秋山は慣れた手つきでサインをし、並んでいる人の名前を聞いて、日付とともにそれを書き加え、笑顔でありがとうございました、と握手をする。中には、一緒に写真を撮ってくれと言ってくる人や、プレゼントをくれる人もいるが、秋山はそれをすべて快く受け入れていた。それなので、老若男女問わず、ファンが多かった。
今日は、これが都内で三軒目のサイン会だった。
明日は、大阪に飛んで、この本についてのトークイベントが予定されていて、その日のうちに大阪梅田の書店でまたサイン会と講演会が入っていた。
大我内閣を退陣に追い込んだ、屋代ダムの二六二九億円の大スキャンダルは一年もすると誰も話題にすらしなくなった。政治家のいつもの汚職程度にしか、国民は認識しなかった。国民は、もはや、政治家には何も期待しないのかもしれない。
ただ一方で、その内幕を描いた秋山明良の処女小説『殺し屋のマーケティング』は全国的な大ヒットを記録していた。ミリオン、すなわち一〇〇万部に到達するのも時間の問題だと、今朝、担当編集が言っていた。
不思議なことに、このときになっても、秋山と一緒にこの本を作った編集者が誰だったのかわからなかった。しかも、どうやらこの大ヒットの背景にも、同じ人物が暗躍しているらしかった。
『殺し屋のマーケティング』のヒットは、発売当初に同時多発的に、テレビ、雑誌、新聞、WeBメディアに取り上げられたことが原因だったと言われている。PR戦略の勝利とも謳われたが、実は出版社の営業部や販売部は、このとき、一切動いていなかった。動いたのは、火がついた後だった。
火をつけたのは誰なのか。
初期に『殺し屋のマーケティング』を取り上げた大手出版社の雑誌編集長は、秋山にこう言っている.
——マーケターを名乗る、よく日焼けをした壮年の男が持ち込んできた。社長からの紹介で、ネタとしても興味深かったので、取り上げることに決めた。
よく日焼けをした壮年の男は、別のメディアにも現れている。ただし、誰もその正体を知らなかった。 秋山が疑問なのは、なぜ、その男は『殺し屋のマーケティング』をヒットさせなければならなかったのか、ということだった。男は印税を受け取る権利があるわけでもなかったし、この本が出る前に、すでに大我内閣は退陣していたので、政治的な思惑があるとも思えなかった。
こうして秋山の前にサインを求める人の列が連なる状況にしなければならない理由が、その男にはあったはずなのだ。
あるいは、と秋山が思っている存在があった。しかし、それは都市伝説であって、実在するはずもない存在だった。
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