「目白台」はその日、いつにない緊張感に包まれていた。
スタッフたちが、ではない。最も緊張していたのは、ここの主、現内閣総理大臣大我総輔だった。
先日、「目白台」の屋敷の大我総輔宛に、ある小包が送られてきた。
とても小さな漆塗りの円形の容器で、検査の結果、爆発物でも毒物でもなかったので、その小包は大我総輔の元に届けられた。
桐生譲がそのときいたSPから聞いたところによると、それを開けた瞬間、大我総輔は、悲鳴を上げて卒倒したという。
それから三日間、大我総輔の意識は戻らなかった。公には、体調が優れず入院したことになっていたが、医師団も原因がわからなかった。
ただ、その小包の中身が大我に強いストレスを与えたことは確からしかった。念のため、その物質は大学の研究所に送られて改めて成分が調べられた。何の変哲もない、ありふれた成分が検出され、少なくとも人体に害はないとの結果が出た。
差出人は明らかだった。テロ組織や犯罪組織ではなく、個人だった。差出人の住所は宮城県栗原市で、差出人の名前は田辺信だった。
誰も聞いたことのない名前だと、当初誰もが思った。
目覚めた大我総輔は、その謎の物体が大学の研究所に送られたことを知ると激怒した。そして、その成分解析に関わったすべての人物を「執行」せよと命じた。
さすがに、大我の状態を訝しんだ児玉が理由を聞くと、大我は神経質に周囲に血走らせた目を向けながら、児玉の耳を引き寄せて小声でこう言ったという。
「あれは、ククリコクリコクの粉に間違いない。母が持っていたものだ」
この言葉で児玉は、初めて、大我が錯乱しているわけではないことを知って安心する。と同時に、大きな懸念が浮上することになる。
これを送りつけてきた、田辺信とは、いったい、何者なのかと。
児玉から命じられて、桐生はその人物について調べた。調べてすぐに、顔写真が判明し、それが誰なのかわかった。宮城の田園で、最後に西城潤と一緒にいた男だった。すぐに思い出せなかったのは、彼の様子や人となりの報告を受け、危険な対象ではないと思い込んでいたからだ。
こちらが調べるのを待っていたかのように、田辺信の使いを名乗る男から連絡があった。目白台に挨拶に伺いたいと主は申しているとその男は言った。
明らかに相手に主導権があり、「目白台」側としては断るという選択肢が初めからなかった。
応接間の楕円形のテーブルで、皆苦虫を嚙み潰したような表情で田辺信を待った。
いつもは大我が座る、上座の重厚な革張りの椅子を念のため空けてあった。
それは、ある可能性を、「目白台」が考慮したからだ。ある可能性とは、この場にいる誰にとっても、そうであってほしくないことだった。
もし、「田園の哲人」田辺信が、コードメーカーだった場合、事は非常に厄介になる。
大我の背後には、東京の街が見渡せる、広い窓が広がっていた。
まもなく、廊下が慌ただしくなった。廊下が軋む音がした。ドアが開けられた。礼儀として、全員がざっと音を立てて直立した。
「なんだ、堅苦しいな」
入ってきた男は軽い調子で言った。宮城の田舎で農作業をしているためか、日に焼けた肌の色が濃かった。そして、精悍な顔をしていた。
間違いない、あの田園にいた男だった。
おそらく、児玉も気づいたのだろう。珍しく感情が外に見えるほど、不可思議そうに田辺信の顔を見ていた。
それも無理はない。彼は軽度の知的障がいがあると報告を受けていたからだ。ところが、その表情や振る舞いは、とてもそのようには見えなかった。
その男は、遠慮する素振りを見せることもなく、至極当然のように上座についた。その場にいる全員に座るように、目で促し、自ら堂々と脚を組んで座った。そして、すぐに本題に入った。
「そろそろ、代わってもらいたいんだよね」
男はまるでテレビゲームの交代を促す少年のような表情で、少なくとも倍は生きている内閣総理大臣大我総輔に言った。
「それは、どういうことですか?」
総理大臣のほうが敬語で、男のほうがいわゆる「タメ口」だった。それがなぜか、違和感がないように桐生には思えた。
やはり、と桐生は思った。これは、最悪の事態なのかもしれない。
それは、児玉も、応対している大我総輔も感じていることだった。
「言葉のとおりだから、そんなに難しくはないと思うんだけど」
実に余裕を持って、大我総輔の目を見つめながらその男は言った。総理大臣だろうが、何だろうが、男には何も関係がないようだった。
むしろ、緊張しているのは、総理大臣のほうだった。
「しかし、我々はあなたに対して……」
大我総輔が必死で抗弁しようとするのを、その男は、わかってる、とすっと手をかざしただけで制する。「群馬の怪人」の異名を持つ内閣総理大臣をだ。
「十分にわかってるよ。でもね、やっぱり、まずいよね、殺しすぎたと思うよ。もうバグが抑えきれない。それは、あなた自身もわかっていることでしょう、総理」
やはり、そうなのだと、この瞬間、確信して思った。彼こそは、コードメーカーだ。表に出てはいけない人が、こうして自ら乗り込んできたことになる。本当に存在するのかと、桐生は我が目を疑った。生きている間に、実際に会えるとは思ってもみなかった。
そう言われた大我は、何かを考えるように、テーブルの上で行儀よく組んだ自らの手を見つめているようだった。コードメーカーなら、下手な対応はできない。この「目白台」の存続にも関わる話だった。
大我総輔は、意を決するように再び口を開いた。