同僚の吉田とは仕事以外に話すこともなくて、間が持たなくなるとつい「奥さん元気?」と訊いてしまう。吉田の結婚披露宴に呼ばれたのが五年ほど前のことだ。
「元気っていうか、ピリピリしてますね」
「ハハ、ピリピリしてるんだ」
「はい、子供が手ぇかかる時期なんで」
「あ、子供いくつ?」
「二歳っすね。魔の二歳児ってやつで」
「へー」
「育休中なんで、ずっと家にいるからストレス溜まるみたいで」
「育休かぁ。うらやましいな。それ、給料はもらえて、家にいるんだろ?」
「そうっすね。うちのは公務員なんで、三年くらい取れるみたいっす」
「はっ⁉ 三年も休めるんだ。すごいな、それ」
「だからのんびり子育てしててほしいんですけどね、なーんかピリピリしてて、俺が家に帰ったら、あれしろこれしろってうるさいんですよ」
「あれしろこれしろって何?」
「家のこと手伝えってことですよ。皿洗ったりとか洗濯物たたんだりとか」
「え、お前そんなことやらされてんの?」
「やってますよ……やらないと鬼の形相で怒鳴り散らしてくるんですもん」
「へぇーあんなきれいな奥さんがねぇ」
披露宴のときは、唇をきゅっと結んで、一言も口を利かずにうつむいていた、あの奥さんがねぇ。
「もう別人ですわ。化粧もしないし。髪も短く切っちゃって、色気もないし。いつも眉間のとこにこう、シワが寄ってて。なんか顔が怖いんですよ」
「変わるもんだねぇ」
「子供はね、可愛いんですよ。でも俺が子供を可愛がって遊ぼうとすると、お前は世話してないくせにって空気を出してくるんですわ」
「えー、酷いねぇ」
「そうなんすよ。それで嫌味ばっかり言ってくるんで、どうすりゃいいのって感じで。帰りが遅いとかなんとか、いっつも怒られてます」
「たまんないね、疲れて帰ってそんなこと言われちゃ」
「ほんとですよ。だから俺、たまに仕事が早く終わったら、本屋とか寄ってぶらぶら時間潰して、それから帰りますもん」
「ハハ、それは奥さんが可哀想だよ」
「どうせ家にごはんの用意もないから、いいんですよ」
「え、ごはんないの? そりゃあ奥さん、妻の義務を果たしてないよ」
「だから居心地が悪くて悪くて……」
「気の毒だな、自分ちの居心地が悪いなんて」
「上岡さんちは居心地いいんですか? そんな家庭存在するんですか?」
「まぁそうだなぁ、うちは別に、居心地悪いって思ったことはないな」
「うらやましいですね。秘訣ってあるんですか? なにかケアしてるとか」
「ケアってなんだよ」
「奥さんのケアですよ。メンテナンス。定期的にプレゼントあげてるとか?」
「そんなことしないよ」
「じゃあやっぱ家のことやってるとか? ゴミ出しとか」
「するわけないだろ」
「なんにもしなくて奥さん怒りません?」
「いや全然。結婚してからケンカしたことないし」
「は? マジですか? そんな家庭あるんですか?」
「あるよ、あるある。うちはほら、押しかけ女房みたいなもんだから」
「なんすかその、押しかけって」
「俺が一人暮らししてたときに、うちのがよく飯作りに来てたんだよ」
「へぇー、いいっすね」 「料理が得意で、人に食べさせるのが好きだからって、食材こんな買い込んで」
「いい子ですね」
「まあな。正直、美人じゃないし、俺はそんなに好きじゃなかったんだけど、でも飯はうまいから、まあいいかなーって」
「ああ、胃袋をつかまれたってやつですね」
「そういうことかな。だから食事の用意がないなんてこと、あり得ないなぁ」
「それ本気でうらやましいですよ。うちのは料理が面倒だ面倒だって、しょっちゅうブーブー言ってるから」
「そんなんで作ってもらっても、美味くないよな」
「そうなんすよぉ〜。だったら外の定食屋で食べる方が、よっぽど美味いんですよ」
「俺、定食屋とか、結婚してから一度も行ってないかも」
「え、昼もですか? あ、そっか上岡さん、いつも弁当ですもんね」
「そうそう。朝飯だろ、昼は弁当だろ、夜ごはんだろ」
「三食とも手料理かぁ、いいっすね」
「手料理に慣れたら、こういう居酒屋の食べ物も、どっかつまんなくてな。この店のメニュー見てても、食いたいものそんなにないんだよ」
「へぇー。俺なんか、ここで栄養とらないと死ぬって感じですけどね」
「ハハ、奥さんにごますって、味噌汁とか煮物とか、ちゃんと食わしてもらえよ」
「ほんとっすね。食いたいですわ、そういう温かいもの。でもなぁ、作ったら作ったで、美味しいって言わないと機嫌損ねたりして、それはそれでまた面倒なんですよ」
「感想まで求めてくんのかよ」
「上岡さんとこ、そういうのないんですか?」
「ないない。俺なんか、食べっぱなしだから」
「ごちそうさまとか言います? 美味しかったとか」
「ごちそうさまくらいは言うよ。でも美味しかったなんていちいち言わないな」
「へぇー。そんなことしたら、うちの奥さん怒髪天ですけどね」
「ちょっと怖いよ、お前んとこの奥さん」
「ははは、ほんとですよ。うらやましいなぁ、上岡さんとこ」
「まあ、そのかわりうちのは、別に美人じゃないけどな」
「顔なんてどうでもいいんですよ、うまい飯さえ文句言わずに作ってくれたら」
吉田は腕時計を見ながら、「まだみんな来ないっすね。馴れ初めも聞いちゃおっかなぁ」と言った。
「まあ、一方的に惚れられたのが、つき合った理由だな。俺はほかに好きな子がいたんだけど、いまの奥さんがガンガンアプローチしてきて、まあ、据え膳食わぬは男の恥ってやつで。すぐに妊娠して」
「え、そうなんですか⁉」
「でも結局それは間違いだったんだけど、妊娠してなかったってわかったときには、もう両親にも紹介してたし、俺も三十過ぎてたから、まあ、あとは流れで」
「なるほど……。奥さん、よっぽど上岡さんのこと好きだったんですね」
「ってことかなぁ? じゃなかったら十年も俺の世話なんてやってらんないだろう」
「あ、奥さん専業主婦ですか?」
「ああ。会社の受付やってたんだけど、すぱっと辞めてもらって。うちの両親も、その方が安心だからって」
「まあたしかに、奥さんは家庭に入ってもらった方が、なにかと安心ですよね。俺もそういうとこまで考えて選べばよかったなー」
「専業だから当たり前なんだよ、三食作るくらい」
「そうっすね。うちなんてつき合ってたころは可愛くていい子だったけど、結婚したら化けの皮がはがれて、態度が全然違いますもん。前はくしゃみするとき、はっ……くちゅんって、可愛かったんですけど、いまじゃあブワックショーイ! って、オッサンみたいなくしゃみかましてきますからね」
「それはないな……」
「えっ⁉ 本当ですか? これ、既婚の男に言ったら、みんなあるあるって盛り上がるんですけど」
「そうなの? うちのは、そんなはしたないくしゃみとか、ないな」
「オナラは?」
「そんなもん人前でする女いんのかよ」
「いますよ! うちのは人前でブーブー。まあ、なんか笑っちゃうんですけどね」
「は? 笑えないよそんなの。そんなことされて幻滅しない?」
「してますよぉー幻滅しきってますよー」
そう言う吉田の笑い顔は、なんだか幸せそうだ。
ようやく到着したクライアントと女子社員が合流して、四人揃って乾杯をした。女子社員が「二人でなに話してたんですか」と訊くので、吉田が要約すると、クライアントも「うちのもヒステリックでねぇ、こないだ深夜に帰ったら、トマト投げつけられましたよ。イタリアのお祭りかってね、ハハハ」と苦笑いで同調して、なんだかいい感じに話を弾ませている。独身の女子社員も、「でもそうやって本性を見せられるのって、結婚してる人の特権って感じですね」と微笑ましげだ。
「いやぁー、文句も言わずに三食、料理に腕を振るってくれるとは、上岡さんの奥さまがうらやましいですな」
クライアントは言うが、それはいかにもお世辞という感じがした。
「そうですよ、奥さんの愚痴が出てこない人、めずらしいですよ」と女子社員。
実はいま話したことは、氷山の一角に過ぎなかった。
美味い手料理を文句も言わずに用意してくれるうえ、連絡せずどんなに遅く帰っても、妻は黙って待っていてくれた。風呂に入ると一言言えば、ピカピカに磨いて適温のお湯をはってくれるし、パンツは毎日きれいに洗濯されて引き出しに戻っている。休日にどこかに連れて行けなんてことも言わない。そしてセックスを拒むこともない。うちの妻は結婚前と、なにひとつ変わっていない。
そんなことをつらつら話すと女子社員は、
「その奥さん、変ですよ」ピシャリと言い放った。
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