「遅れて申し訳ございません」
桐生譲が、目白台に到着したとき、すでにこの屋敷の主は楕円のテーブルの向こうに着座し ていた。 桐生が来たことにも、気づかない様子だった。もしかして、居眠りしていたのかもしれない。
「おお、来たか」
取り繕うように言う大我総輔の顔が、どす黒いように見えた。顔色が尋常でなく悪い。桐生がじっと自分の顔を見ていることに気づいたのだろう。
大我はごまかすように、笑おうとしたが、顔が少し、歪んだだけだった。いつもは気を張っているが、やはり、八〇を過ぎた老体なのだ。
「最近、よく眠れんのだよ」
前の大我なら、決して弱みを見せることがなかった。気迫の塊のような、触れるとこちらが引火してしまうのではないかと思うほど、無尽蔵なエネルギーを内包している人だった。通称の「群馬の怪人」は、伊達ではなかった。
ところが、ここ数ヶ月でめっきりと老け込んだのだ。というより、年相応になったと言っていい。 理由はわかっていた。
最近、流行している『2629』が原因だった。
「何度も申し上げますが、あの本自体には何も暴露されていません。それに、あの本を企画した西城潤はすでに死んでいます。不発弾が誤って爆発しただけのことです」
本の内容は、二六歳から二九歳までの女性が最も美しいと定義するもので、ロリコン文化に嫌気が差していた特に女性に圧倒的に受け入れられた。その数値にも、医学的な根拠も何もない。意味のない、けれども、広がりやすい理論だった。おそらく、西城潤は生きていれば、これを使って「目白台」と渡り合うつもりだったのだろう。ただ浮遊するガスは、たしかに不気味ではあるが、着火剤がなければ爆発することはない。
そして、その唯一の着火剤になりうる、西城潤はすでに死んでいる。
わかっておる、と大我は痰の絡んだ声で言う。咳き込み、ポケットから出した白いハンカチに痰を吐き捨てる。
「だがな、その破裂した爆弾の破片が胸に突き刺さってどうも痛いんだよ。よく、枕元に立つんだ、本屋のやつがな」
まさか、と桐生は思う。不発弾ではなく、自分が死んだ後も攻撃ができるように、このブームを用意していたとしたら——。
「死せる孔明生ける仲達を走らすか」
つぶやくように、大我は言った。
「私は、仲達になるか」
「総理、何を弱気な」
児玉宗元が入ってくる。
「大丈夫です。本屋はサイレンス・ヘルによって葬られました。現役最強、世界一のスナイパーです。本屋は確実に死んでいます」
そうだな、と大我は頷く。次第に、目に生気が戻ってくる。
そのとき、桐生の緊急用端末が着信し、けたたましい音が鳴る。部屋の緊張感が瞬間的に高まる。
液晶を見て、桐生の身体に戦慄が走る。その手が震えている。大我と児玉を見る。
「そのサイレンス・ヘルからです」
声がどうしても震えてしまう。
それは、瞬間的な変化だった。
「かまわん、ここで取ってくれ」
そう身を乗り出すようにして言う大我は、もはや、先ほどまでの弱り切った老人ではなかった。目にはすでに生気が蘇っていた。
そうだ、と桐生は頼もしくも、怖くも思う。この人は、限界集落出身で様々な逆境をはねのけて、この国の頂点に上り詰めた。そう、死者を前に敗走した仲達などではない。そこにいるのは逆境にこそ真価を発揮する「群馬の怪人」だった。
頷き、桐生は携帯端末を耳に当てた。大我と児玉の視線が自分の背中に集中するのを感じながら、桐生はサイレンス・ヘルが話す内容に集中した。
まず感じたのは、声が違う、ということだった。気のせいかもしれないが、微妙な点で何かが違っていた。おそらく、声紋的な意味での声は一致している。イメージとしては、誰かに脳を乗っ取られているような、まったく別人と話している感覚があった。得体の知れない何かと話している感覚があった。
次のサイレンス・ヘルの言葉で、
「何?」
と、桐生の表情が変わる。顔を上げて、大我と児玉の顔を見る。その顔には血の気がなかった。
桐生は携帯を耳から離し、震える手で持ち、考え込むように視線を落とした。
「どうした?」
その大我の問いかけで、桐生は我に返ったように顔を上げる。
「もう切れましたが、総理にメッセージを言づかりました」
ゆっくり言っている間に、桐生は今のサイレンス・ヘルの言葉の意味を、よりポジティブなほうへと解釈しようとした。けれども、すぐにそれが不可能だと悟った。
「メッセージだと?」
桐生は頷く。そして、宣告するように言った。
「バグはすべて回収したと」
大我は、ああ、と声にならない声を上げて、皺にまみれた大きな手で自らの頭を抱え込む。
「バグを回収した……」
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