井上が恐る恐る商品企画会議室のドアを開けると、真正面のテーブルの上に、久美が足と腕を組んで座っていた。鬼のような形相だ。井上が部屋に入り、後ろ手でドアを閉めると、久美はドスの利いた声で静かに言った。
「説明しなさい」
「だ、だから、入札価格はウチが一番安かったし、要望リストへの回答のスコアもウチが一番よかったんだ。でも、勝ったのはウチじゃなくて、バリューマックス社だった。一番高い〈会計の達人〉に決まったんだ」
「バリューマックス社はそもそも要望リストへの回答なんて提出していないそうじゃないの。それで、なんでバリューマックス社になるのよ!」
「そんなこと、ボクに聞かれたってわからないよ」
「アナタ、帝国建設さんの担当営業でしょうが? なんでわからないのよ」
「だって、お客さんは、『駒沢商会さんにはいつもちゃんと言うことには完全に対応してくれるし、価格も安いし、本当に感謝しているんですけどね。でも今度はバリューマックス社にしました』としか言わないし——」
「なんかの間違いじゃないの? もしかしてあの内山とかいう女、あーゆー澄ました顔して、女の武器とか、汚い手を使っているんじゃないでしょうね?」
井上は(顧客の経理部長の隣に引っ越して、半分色じかけで口説き落としたお前が、それを言うか?)と内心ツッコミを入れたが、そんなそぶりはおくびにも出さずに言った。
「うーん、どうかなあ。それはないと思うけど……」
久美は顔を紅潮させて怒りをぶちまけた。
「何よ! 何もわからないの! まったく話にならないわね。アナタ、悔しくないの?」
いきなり拳で机をドンと叩いた久美の迫力に、井上は思わず5センチほど飛び上がった。
「そもそもなんで負けたかわからないのが、すっごく嫌なのよ。それがわからないと、次の手が打てないじゃない!」
(それに、私にだって女のプライドってものがあるのよ。あの内山明日香なんかに負けて、このままオメオメと引き下がってなんかいられない!)という本音はさすがに言わないでおいた。
「井上クン。私と帝国建設さんの会計部長との打ち合わせ、すぐにセットして!」
「え? 打ち合わせ?」
「二度も言わせない!」
「ハ、ハイ!」
井上は久美の勢いに完全に飲まれてしまった。すぐにケータイを取り出すと、帝国建設に電話して、「いや、そこを何とか。ご無理は重々承知で……。何とぞ、平に、お願いします」などと言いながら、ペコペコ頭を下げてひたすら謝った。3分ほど話してから「ありがとうございました」と電話を切り、直立不動の姿勢で報告した。
「今週金曜日の午後1時から、帝国建設の大野部長とのお約束が取れました」
ほとんど久美の下僕と化している井上であった。
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