ウルトラマンがやってきた ~ウルトラ・シリーズの再出発①~

2010年代に入ってウルトラシリーズ、仮面ライダー、ヤマト、ガンダム、あるいは「ベルばら」「ポーの一族」等が次々と40、50周年を迎えている。これらは単に昔のものとしてあるだけでなく現役のコンテンツとして新作が発表され、映像化、舞台化されている。逆算すれば分かるが、大半は1970年代に始まった。1960年に生まれ、アニメ、特撮ものを最初期からTVで見ていた中川右介(作家、編集者)が「リアルタイムの記憶を基にして目撃譚」として描くサブカル勃興史。

記憶を辿りながら書きますが公にするからには、記憶にだけ頼り、間違ったことを書いてはいかないので、改めて調べ事実確認をして書きます。歴史家的視点と当時の少年視聴者・読者としての記憶とを融合させ「読者・視聴者としてサブカル勃興期を体験した者が書く歴史」を提示したいと思います(筆者)。

ウルトラ・シリーズの起点は、一九六六年の『ウルトラQ』である。だから本書の基準である「一九七〇年代に始まった」に含めるべきではないかもしれない。

 しかし、『ウルトラQ』に始まる「空想特撮シリーズ」は、一九六八年の『ウルトラセブン』でいったん終わったし(『怪奇大作戦』までとの解釈もある)、作品間に共通の世界観はなく、それぞれ独立した作品だった。


 一九六八年九月に『ウルトラセブン』が終わり、二年半の空白の後、一九七一年四月に始まった『帰ってきたウルトラマン』こそが、今日まで続くウルトラ・シリーズの起点とも考えられるし、「ウルトラ」はサブカル史における最重要コンテンツなので本書から落とすわけにはいかない。

●怪獣ブーム

ウルトラ・シリーズの起点である『ウルトラQ』は、一九六六年一月からTBS系列の日曜七時、武田薬品工業提供の三〇分番組枠で放映された。この枠は後に「タケダアワー」と呼ばれるが、当時はそういう呼称はなかった。

「タケダアワー」の第一作は『月光仮面』で、広告代理店の宣弘社が制作した。僕にとっては生まれる前の話だ。以後もタケダアワーでは宣弘社制作の子供向けのテレビ映画が放映され、『ウルトラQ』の前は『新隠密剣士』だった。これも覚えていない。

『ウルトラQ』は一九六六年一月二日に放映が始まり、七月三日で終わって、七月一〇日から『ウルトラマン』になる(一〇日は前夜祭で、一七日が第一話)。僕にとっては幼稚園時代にあたり、『アトム』、『サンダーバード』、『オバQ』とともに、リアルタイムでの記憶がある最初期の番組だ。つまり『ウルトラQ』以前は僕にとっては「有史以前」なのだ。

 タケダアワーは『ウルトラQ』から宣弘社の制作ではなくなる。言うまでもなく、『ウルトラQ』は円谷プロダクションの制作だ。東宝の特技監督、ゴジラの生みの親の円谷英二が作った制作会社である。

 円谷プロダクションとしても『ウルトラQ』は最初のテレビ映画だった。当初は「アンバランス(UNBALANCE)」というタイトルで、SF色の強いドラマで、怪獣が毎回出る予定ではなかった。ある程度、制作が進んだ段階で怪獣ものをメインにすることになったという。

 一九五四年の『ゴジラ』に始まる東宝の怪獣映画(「特撮映画」ともいう)は、当初は子供向けの映画ではなかったが、やがて客層を子供に絞るようになっていった。ゴジラだけでなく、モスラ、ラドン、キングギドラなどの人気怪獣は、何度も登場するようになっていた。子供が怪獣が好きだということは、テレビ会社も分かっていたはずだが、特撮ものは普通のドラマよりも製作費がかかるので、手を出すところがなかったのだ。

 円谷英二も、怪獣ものを作りたくてテレビに進出したわけではなかったようだが、結果として、『ウルトラQ』によって怪獣ブームが起きた。

 それまでは夏休みや冬休みに映画館でしか見ることのできなかった怪獣が、毎週テレビに登場したのだ。子供たちが飛びつかないはずがなかった。

『ウルトラQ』で怪獣の人気が高まり、続く『ウルトラマン』では、怪獣に加えて、それを倒すヒーローを登場させると、怪獣ブームはさらに沸騰というか爆発的なものになった。

 ウルトラマンだけでなく、他にもヒーローがいて相乗効果となっていた。手塚治虫原作の『マグマ大使』だ。

『ウルトラマン』が日曜七時で七月一〇日に前夜祭、一七日が第一話の放映だったのに対し、『マグマ大使』はフジテレビ系列の月曜七時半からの三〇分番組として七月四日に始まったので、「日本初の特撮巨大ヒーロー」の栄誉はマグマ大使にある。

●うしおそうじとピー・プロダクション

『マグマ大使』を制作したのは、うしおそうじのピー・プロダクションである。うしおは本名を鷺巣富雄といい、一九二一年(大正一〇)に生まれた。戦前の東宝映画に入り、円谷英二に師事し特撮を学び、円谷が特技監督をした一九四二年の『ハワイ・マレー沖海戦』の撮影に参加している。またこの時期、アニメーションについても学んでいた。戦後の東宝大労働争議が終わると、うしおは退社してマンガ家になり、手塚治虫とも親交を深めた。しかしアニメへの思いが募り、うしおは一九六〇年に映像制作会社ピー・プロダクションを設立した。同社の最初の大きな仕事が、辻なおき原作の『0戦はやと』のテレビアニメ化だった(一九六四年一月から一〇月までフジテレビ系で放映)。

『0戦はやと』が一九六四年一月に始まってしばらくたった頃、TBSから手塚治虫の『ビッグX』をテレビアニメにするので制作してくれと依頼された。しかしピー・プロは『0戦はやと』で手一杯で余裕がなく、断らざるをえなかった(第一話に記したように、『ビッグX』のためにTBSは国際放映の協力を得て、東京ムービーを設立させた)。

『0戦はやと』が終わる頃、うしおは手塚から虫プロの『鉄腕アトム』の制作を請け負ってくれと頼まれ、六五年一月放映分から合計して三九本を手伝った。

 一方、うしおは、アニメではなく特撮映画の制作へ転換しようと考え、六四年九月に『クラブくんの冒険』という学習マンガの実写化のパイロット・フィルムを完成させ、テレビ局や広告代理店に打診し、また恩師である円谷英二にも見せていた。六五年になって、そのパイロット・フィルムを手塚にも見せようと、うしおは虫プロを訪ねた。手塚は多忙で見ることができなかったが、たまたま新作『W3』の打ち合わせのために虫プロを訪問していた東急エージェンシーの営業担当者に見てもらえた。

 東急エージェンシーはこれが気に入り、ロッテをスポンサーにするところまで決めた。だが、「もっとインパクトのあるものがいい」と言われてしまう。そこで浮上したのが「少年画報」での連載が始まったばかりの手塚治虫の『マグマ大使』だった(資料によっては、手塚のもうひとつの巨大ヒーローもの『ビッグX』も候補に挙がったともいう)。東急エージェンシーも『マグマ大使』が気に入ったが、手塚作品は虫プロが権利を持っているはずだから難しいと言った。しかし、うしおは手塚から権利を得ることに自信があった。うしおの回想録『手塚治虫とボク』によれば、彼は六五年一二月に漫画集団の忘年会の場で手塚をつかまえて説得した。手塚は『鉄腕アトム』の実写版が気に入っておらず、「アニメならいいが実写はイヤだ」と断ったが、とりあえず『マグマ大使』のパイロット版を作る権利だけは与えた。

 こうして、ピー・プロダクションは『マグマ大使』の制作に入り、パイロット版を作ると評判がいい。当初はモノクロの予定だったがカラーにしようとなった。NHKの大河ドラマがカラーになるのは一九六九年の『天と地と』からなので、三年早い。かくして『マグマ大使』は、一九六六年七月、日本テレビ史上初のカラー特撮番組として、『ウルトラマン』よりも一週間前に放映開始となった。

 円谷英二は自分のところの『ウルトラマン』よりも、弟子であるうしおの『マグマ大使』を心配し、何度か撮影現場にも訪れていたという。

 フジテレビの月曜七時半は、『マグマ大使』の前には手塚治虫原作のアニメ『W3』が放映されていたので、手塚作品が続いていたことになるが、『W3』は虫プロダクション制作のモノクロのアニメで、『マグマ大使』はカラーの実写特撮ものだったので、雰囲気はまったく異なっていた。

 TBSのタケダアワーは、『ウルトラマン』が六七年四月に終わると、宇宙を舞台にしたSFアクション『キャプテンウルトラ』になってしまう。これには巨大怪獣が出ないので、あまり人気がなかった(とはいっても、視聴率二〇パーセント台だった)。制作は円谷プロダクションではなく、東映が担った。円谷プロダクションのような制作会社だけでなく、大手の映画会社も、テレビの仕事を積極的に受注するようになっていたのだ。

 映画会社はテレビが普及しだした頃は電気紙芝居とバカにしていたが、年々、映画の観客動員数が減り、映画館も少なくなっていたので、背に腹は代えられず、撮影所とスタッフを活用するためにテレビ映画を受注していた。

『ウルトラマン』が終わって半年後に、満を持して登場したのが、『ウルトラセブン』(一九六七年一〇月~六八年九月)だった。

『ウルトラセブン』と同時期に、NET(現・テレビ朝日)の水曜七時半の枠で、横山光輝原作の『ジャイアントロボ』も始まっていた。東映が制作した実写特撮の巨大ロボットもので、横山の『鉄人28号』と永井豪の『マジンガーZ』とをつなぐ作品になる。

 しかし『ウルトラセブン』は後半になると視聴率で苦戦し、「怪獣ブームは終わった」と言われてしまう。

 子供は飽きっぽく、二年しかブームは持続しない。それは、多分、昔もいまも同じだろう。一九六八年になると、スポ根ブームと妖怪ブームが始まっていたのだ。

●ブームの考察

不思議なのは、子供はみな「二年で飽きる」としても、毎年、一〇〇万人以上の子が生まれているわけだから、人気のあるものは半永久的に人気が持続しそうなのに、一九六〇年代は、全ての人気キャラクターが持続しない。

「一九六七年の小学一年生」に人気があったキャラクターは、なるほど「一九六九年の三年生」は飽きているとしても、テレビを見始めたばかりの「一九六九年の一年生」には人気があるかもしれないのに、消えてしまうのだ。

 いまは『ドラえもん』をはじめ、『クレヨンしんちゃん』『名探偵コナン』、あるいは仮面ライダーなど、テレビでの放映がずっと続き、毎年、新作映画も作られている人気シリーズがあるので、それが当たり前のように思ってしまうが、一九六〇年代後半から七〇年代前半には、爆発的な人気が出ても、みな「一過性のブーム」で消えていった。

 一九六〇年代は、作り手・送り手側のほうが、少しでも人気が下がると、すぐに次のものへ乗り換えていた。それは、「永遠に人気のあるキャラクター」の前例がまだ存在していなかったからだろう。あるいは、当時のテレビ関係者は、常に新しいものを創ろうとしていたとも言える。

ウルトラセブンの苦戦

『ウルトラセブン』は一九六七年一〇月に始まり、後半の半年はアニメ『巨人の星』と放映時期が重なっていた。実写とアニメでは、普通は実写のほうがリアリティがあるわけだが、『ウルトラセブン』は宇宙人との闘いというSFで、『巨人の星』は現実の読売巨人軍の選手(当時は川上哲治が監督で、王貞治と長嶋茂雄がいて、巨人は九連覇のただなかにある)が出てくるので、この二作ではアニメのほうがリアリティがあった(『ウルトラセブン』放映中は星飛雄馬はまだプロ野球には入っていないが)。

『ウルトラセブン』の視聴率は、六七年一〇月一日の第一回「姿なき挑戦者」が三三・七パーセント、第二回「緑の恐怖」が三三・八パーセントとなったが、これが最高で、だんだんと下がり、六八年になると三〇パーセントを割ることも多くなり、六月には二〇パーセントも割ってしまう。裏番組に子供が飛びつきそうなアニメ、特撮ものが他にあったわけではないので、「視聴者を奪われた」というより、「視聴者に見放された」のである。

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コメント

Sabaki_K_Shiono いや、キャプテンウルトラにも巨大怪獣は出てきます… 8ヶ月前 replyretweetfavorite

a_tocci この2作ではアニメのほうがリアリティがあった(『 9ヶ月前 replyretweetfavorite