一故人

​かこさとし—多様な世界の端っこで

絵本作家、児童文学者として、作品を通し、多くの人から愛された、かこさとし。その多くの作品は、戦時下の苦しみや、二足のわらじを履いた会社員時代の影響も反映されています。子供たちと真摯に向き合った生涯をたどってみましょう。

二足のわらじを履き続けるための努力

敗戦直後の1948年、昭和電工事件という一大疑獄事件が起こった。これは総合化学工業会社である昭和電工が設備拡充のため、復興金融金庫から巨額の融資を得るべく、社長の日野原節三らが政官財界へ約1億円に上る金品をばらまいたという事件である。野党の追及から政治問題化すると、日野原のほか大物官僚や政治家などが次々と逮捕され、ついには当時の芦田均内閣が総辞職にまで追いこまれた。

疑惑が持ち上がったころ、昭和電工の入社式で、社長の日野原が「何でもいいから、質問があったら、どうぞ」と言うので、一人の新入社員が挙手をし、「世上、とかく噂がありますが、我々はこのまま勤めてもいいのでしょうか」と訊ねた。これに重役たちは新入社員の分際で何を言うかと色めき立ったという。

その新入社員の名は中島 さとし といった。彼こそ、のちに絵本作家となるかこさとし(加古里子。2018年5月2日没、92歳)である。かこは東京大学工学部応用化学科を卒業して昭和電工に入ると、1973年に退職するまで25年間勤務した。この間、1959年に絵本作家としてデビュー、会社をやめるまで二足のわらじの生活を送ることになる。

会社員時代のかこは、月曜から土曜までは会社でみっちり仕事をし、執筆にあてていたのは日曜だけだった。その日曜も、朝の8時から夜中の12時まで机の前に座り、立つのはトイレに行くぐらい、食事も子供にパンを持ってこさせ、それをかじりながらひたすら執筆に集中したという(木村繁「解説=科学者としてのかこさん」、かこさとし『科学者の目』)。

二足のわらじを履き始めたときから、会社で80%の力を出して、残りの20でもうひとつのほうをやろうなどというさもしい考えは捨てた。それでは会社で生き残れないばかりか、問題を起こすからだ。だからこそ会社では100%どころか120%を出し、何かあっても「文句があるか」と開き直れるくらいの仕事ぶりを発揮できるよう努めたという(かこさとし『未来のだるまちゃんへ』)。朝は人より30分早く出社し、残業も一切断らず、帰宅が朝になることもしばしばだった。週に2、3回は飲み屋に部下(管理職になってからは500人もの部下がいたという)を連れて行き、愚痴を聞いてやったりもした。

絵本の収入が会社の月給をやや上回ると、出版社からは会社をやめて専業になってはどうかと言われたが、それでも即断はできなかった。たまたま絵本が売れただけで、次に売れる保証はないし、会社の恩恵も給与だけでなく福利厚生など色々ある。一家の長として家族を路頭に迷わせるわけにはいかないし、絵本づくりにじっくり取り組みたいと思うからこそ、会社員としての安定した収入は捨てがたかった。しかし絵本作家として名が知られ始め、テレビにもちょこちょこ出演するようになると、それまで極力隠していたのが上司にバレ、注意されたこともあった。かことしては会社に悪いことをしているつもりはなく、先述のとおり社内で批判されても開き直れるだけの努力はしてきたが、しだいに居づらくなってくる。

退職を決意したのは、当時の定年より10年早い45歳のときだった。それというのも40代になり、人生の残り時間が気になってきたからだ。この時点で具体的に描きたいものが200くらいあった。一作につき200時間を要するとすれば計4万時間、1日8時間労働に換算すると20年近くかかるだろう。そうなると定年後に始めるのでは遅く、ここで会社をやめたほうがいいという結論にいたった。ただし、手がけていた仕事の区切りをつけるのに時間がかかり、円満退社したときには47歳になっていた。絵本を描きながら会社勤めを続けた理由について、かこはこんなことも語っている。

《私の絵本を読んでくれるのはふつうの家庭生活を送っている人たちですから、芸術家気取りはだめです。生活を一人前にできないような落伍者が偉そうなことを言っても、読み手は鋭く見抜くでしょう。社会人としてまっとうに生きることが、絵本を描くうえでは大切だと考えていました》(『週刊文春』2012年11月1日号)

社会人としてまっとうに生きるからこそ、会社に対し妥協もしなかった。入社式で社長に食ってかかったのも、単なる正義感からではなかったという。そこには戦争に負けてすべてがひっくり返るという体験が反映されていた。戦後、世の大人たちは戦時中にやったことなどすっかり忘れたふりをして、「自分たちはだまされていた」「初めから戦争には反対していた」などと言い出した。かこは、そんな大人たちみたいにはなるまいと、おかしいと思ったら躊躇せず異を唱えていこうと誓ったのだ。

彼はまた、「これまでの自分は、戦争の終わった昭和20年で死んだ」とも繰り返し口にした。はたしてその真意は何だったのか。彼の生い立ちを振り返ってみたい。

戦争で死んでいった仲間たちのために

かこさとしは大正時代の終わる1926年、福井県に生まれた。4月生まれだが、父親は学年が一つ繰り上がるよう3月生まれとして出生届を出したという。豊かな自然のなかでのびのびと育った彼は小学2年生のとき、兄の進学にあわせて一家で東京に引っ越した。

絵を描くのは幼稚園のころから好きだったが、親がそれを禁じたため、家ではこっそり隠れて描いていた。ましてやマンガを読むなどもってのほかで、あるときなど、当時人気のあった田河水泡の『のらくろ』の単行本を、ためた小遣いでやっと入手したものの、親に見つかって泣く泣く書店へ返しに行かされたこともあった。

そもそも家は貧しく、マンガどころか本も雑誌もなかった。そのため旧制中学に入ると図書室に入り浸り、夏目漱石や芥川龍之介など文芸作品を読み漁るようになる。だが、中学2年になって、担任の教師から「君らもまもなく15歳、昔でいえば元服となる。自らの将来を考えて進め」と一喝されたのを機に、軍人になるための勉強に専念すると決め、好きだった絵も図書室への出入りも自ら禁じた。もともと小学生のころから模型飛行機づくりに熱中していたかこは、学費のいらない軍人の学校に行って航空士官になれば、憧れの飛行機にも乗れ、親にも経済的負担をかけないと考えたのだった。

ところが近視が進んで、陸軍士官学校も海軍兵学校も受けられなくなり、道は閉ざされてしまう。それどころか、いままで励ましてくれていた担任や配属将校が手のひらを返し、「軍人にもなれない役立たず」という扱いを受けるようになる。強く反発したかこは、軍人でなくても国や人の役に立つことはあると、一転して技術者を志した。

成蹊高校(旧制)の理科に進んだのは太平洋戦争中の1943年のこと。2年生になると文科の学生とともに軍需工場に動員された。そこでクラスがばらばらにならないよう『マント』という雑誌をつくり、クラスメイトから俳句や詩、替え歌などの投稿を募っては載せ、回覧することにした。なかには軍部の悪口を書いたものもあったという。

そんな高校時代、盲腸が化膿して入院した際、国語の教師だった俳人の中村草田男が見舞いに来てくれ、『マント』に寄せた俳句を添削してくれたことがあった。じつはかこさとしというペンネームも、草田男の号にあやかり本名の哲をもじってつけた「 三斗子 さとし」という俳号に由来する。だが、俳句雑誌では、戦局の悪化にともないインク代や紙代を節約するためか、3文字の俳号は「草田男」だったら「草田」と略されるようになり、これでいけば「三斗子」は「三斗」とまるで大酒飲みみたいになってしまうと、読みはそのままで「里子」と2文字に変えたのだった。苗字の「なかじま」も電報を打つときには濁点も入れると5文字になってしまうので、いっそ簡潔に2文字、それも五十音順でなるべく先に出てくる音ということで、か行からとって「かこ」とした。

さて、高校を卒業すると東京帝国大学に進んだが、敗戦色は濃くなるばかりで、都内にあったかこの実家も空襲で焼けてしまう。終戦は、一家で疎開していた父親の郷里・三重県で迎えた。

戦争では多くの同級生が出征して死んでいった。自分も航空士官となっていれば、特攻隊できっと死んでいただろう。結果的に近視のおかげで生き残ったが、かつて軍人になろうとした自分の判断は誤りだった。ここから彼は「これまでの自分は昭和20年で死んだのだ」として、以後は「余生」だと考えるようになる。

《余生というからには、先に逝った仲間たちのぶんも生きて、自らの誤りを償わなければならない。それには何ができるのかを、真剣に考え、それを実践し続ける。そのために残りの人生を捧げ尽くそう》『未来のだるまちゃんへ』

そう決めた彼は、大学に復帰すると演劇研究会に参加。その活動を通じて、やがて残りの人生を捧げ尽くすにふさわしいものを見つけるのだった。

論文の裏に描いた紙芝居が大ウケ

演劇研究会で道具づくりなどもっぱら裏方を担ったかこは、地方公演では子供たちの相手もまかされた。せっかく装置を設営しても壊されてはたまらない。そこで子供たちをおとなしくさせるため、ちょっとしたお遊戯で手なづけることにした。このとき、楽しければ笑い、悲しければ泣き、そして退屈ならどっかに行ってしまうという具合に、子供の反応には嘘がないことにすっかり魅せられる。やがて子供に見せるための劇の脚本を書くようになり、3年のときには大学構内で自作の童話劇を近所の小学生たちを招待して上演もした。

大学卒業後、会社に入ってからも、セツルメント活動を通じて子供たちとじっくり付き合った。セツルメントとは、貧しい地区に住む人たちの生活向上をめざし、学生や大学OBが無償で医療、教育などを支援する社会事業だ。

ここで、かこは紙芝居をつくって子供たちに見せてやろうと思い立つ。最初はアンデルセンやグリム童話をきれいな絵にして上演していたが、活動拠点としていた大井町や川崎といった工業地帯の子供たちはさっぱり見向きもしない。いつのまにかザリガニやトンボを捕まえに行ったりしてしまうのだ。

それでも彼は試行錯誤しながら紙芝居をつくっては、毎週日曜のセツルメントの子供会で演じ続けた。ちょうど仕事が多忙をきわめ、会社からは技術者として学位論文を書き、博士号(工学)を取るよう発破をかけられていたときのこと(学位は1962年に取得)。論文の締め切りが迫り、さすがに子供会は休もうかと思ったが、ここでやめてはだめだと、書きかけの論文の裏に黒一色で走り描きして、徹夜で一作完成させた。翌日それを披露したところ、子供たちにおおいにウケ、「もういっぺんやれ」と何度もアンコールがかかった。これが後年、絵本にもなった『どろぼうがっこう』である。

このとき、かこは子供たちはたとえ色鮮やかでなくても内容さえ面白ければ見てくれることに気づいた。やはりのちに絵本となる『あかいありとくろいあり』や『からすのパンやさん』なども、最初は紙芝居として、子供の率直な反応を見ながら生まれた作品だ。

かこはまた子供たちの遊びを観察し、記録をつけていった。半世紀にわたって蒐集した遊びの事例は、『伝承遊び考』全4巻(2006~08年)としてまとめられている。

初めての絵本のヒントは「停電」

会社勤務とあわせ子供たちと付き合うなか、セツルメントの子供会を手伝ってくれていた女子学生から一通のハガキが届く。それによれば、彼女はこのとき出版社でアルバイトをしており、かこの紙芝居がとても面白いので絵本を描いてもらったらいいと編集長に売りこんだところ、出版の約束をとりつけたという。

その編集長、福音館書店の松居直(のち社長、会長)からの注文は「いまの時代にふさわしい大きなテーマを描いてください」というものだった。これに対し、かこは3つほどアイデアを出し、そのなかからダム建設を描く案が採用される。それは、このころ電力不足のため毎日のように起こった停電から発想したものだ。電力需要は高度成長期に入り増えるばかりで、水力発電を行なう佐久間ダムや小河内ダムなど大規模ダムが続々と建設されていた。ただし松居は、ダムの経済的効果ということではなく、そこで働いている人のことを描いてほしいと頼んだという(『母の友』2010年7月号)。

こうして生まれたのが『だむのおじさんたち』(1959年)である。戦後、日本の絵本には無国籍のものが多かったなか、「日本のいまの働くお父さんたち」を描いたこの作品は好評で、かこにはあちこちの出版社から絵本の依頼が舞いこむようになる。

『だむのおじさんたち』の刊行と前後して、かこは2人の娘を儲けた。しかし、週日は会社の仕事、週末はセツルメントと絵本の注文に追われ、自分の子供たちとはほとんど遊べなかった。セツルメントのせいで家族団欒ができない言い訳として「本当は昭和20年に死んだ人間なんだから、我慢せい」と突っぱねたこともあったという(『未来のだるまちゃんへ』)。

松居直によれば、1962年に出版された絵本『かわ』の表紙の原画には、女の子が二人描いてあったという。松居は「これは邪魔です」と伝えたが、彼がにやにや笑いながら「娘です」と言うのに深い愛情を感じ、引き下がった(『母の友』2010年7月号)。かことしては普段娘たちと遊んでやれない罪滅ぼしのような思いがあったのだろうか。もっとも、最終的にできあがった表紙では、「やはり男の子がいなくちゃ」ということで、片方が男の子に変更されている(かこさとし・福岡伸一『ちっちゃな科学』)。

「端っこでも世界なんだ」と言いたい

『かわ』では表紙以外にも、松居から指摘されながら変更しなかったものがある。それは川の汚れを描かなかったことだ。制作当時、公害が問題となりつつあった。しかしかこは、こうした状況はおそらくいつまでも続かないだろうと考えていた。彼に言わせると、『かわ』のような子供向け科学絵本は、子供たちが成長するあいだの最低10年はもつ内容でなければならないし、そこに描かれていることは「真実」でなければならなかった。だからこのときも、《大人になる途中で、昔、本で読んだことが事実じゃなくなっちゃった、なんてことになったらぼくは大変はずかしいので》と、指摘を受けても直さなかったのである(『母の友』2011年2月号)。

『かわ』は、川の流れを源流から河口までページをめくりながらたどるという作品で、自然だけでなく、その流域の人間の営みも細かく描きこまれていた。かこはこのあとも『海』(1969年)、『地球』(1975年)、『宇宙』(1978年)など壮大なスケールの科学絵本に取り組むことになる。一方で、『だるまちゃんとてんぐちゃん』(1967年)や、先述のとおり紙芝居が原型の『からすのパンやさん』(1973年)といったオリジナルのキャラクターが活躍する絵本も手がけ、いずれもシリーズとなり多くの人に愛された。

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この連載について

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一故人

近藤正高

ライターの近藤正高さんが、鬼籍に入られた方を取り上げ、その業績、人柄、そして知られざるエピソードなどを綴る連載です。故人の足跡を知る一助として、じっくりお読みいただければ幸いです。

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