17 デカルトは遠大に「準備する」
正しく判断する心構えでいつもいるためには、真理の認識の他に、習慣もまた必要です。 ―デカルトから王女エリザベトへの手紙 (一六四五年九月十五日)
「精神のうちに刻み込む」ことの重要性
二千五百年に及ぶヨーロッパ哲学の歴史を遠くから眺めてみると、デカルトの活躍した十七世紀という時代の特徴が少しずつ浮かび上がってきます。そのなかでも、私が一介の研究者として着目しているのが、十七世紀の哲学者の多くは他の時代の哲学者たちに比べて「知性改善論」というテーマに率先して取り組んだ、ということです。彼らは、私たちの知的能力のパフォーマンスをどう向上させるか、そのことにどうも強い関心を向けたようなのです。
これは、天才の名をほしいままにした哲学者たちの書物や論文のタイトルからもうかがえます。そもそも我らがデカルトには『精神指導の規則』(一六二八年頃)や『方法序説』(一六三七年)という書物があります。これらを「知性改善論」として読み解くことは十分に可能です。前章でも詳しく論じたばかりです。
また、オランダの哲学者スピノザには『知性改善論』(一六六二年)があり、イギリスの哲学者ロックには『知性の正しい導き方』(一六九七年)があります。ドイツの哲学者ライプニッツには、「認識、真理、観念に関する考察」(一六八四年)という小論文があります。フランスの哲学者にして科学者であったパスカルの周辺にいたアルノーとニコルは、『論理学すなわち考える技術』(一六六二年)という、今日でも通用する論理学の教科書を書きました。具体例はまだまだ挙げられます。
しかし、ちょっと立ち止まって考えてみると、「知性改善論」というテーマを高く掲げるには、人間の知的能力には改善すべき問題点がある、という残酷な現状認識を踏み台にしなければなりません。つまり、デカルトが「人間精神」のうちに認める「弱さ」です。どのような弱さでしょうか。
彼にとってとりわけ悩ましい問題は、注意力や集中力が散漫になってしまうことでした。一点集中ができない。王女エリザベト宛ての手紙(一六四五年九月十五日付け)によれば、「私たちは同じことにずっと注意を払っていられない」。
そこで担ぎ出されるのが、これまた実はあまり頼りにならない記憶力です。大事なことは覚えてしまおう、というわけです(これは「デカルトはときどき『誤る』」のところで取り上げたテーマでもあります)。デカルトは同じ手紙のなかで次のように述べています。
「私たちは同じことにずっと注意を払っていられませんから、以前にある真理を私たちに確信させた根拠がいかに明晰で明証的なものであったとしても、もしその真理を長く、頻繁な熟考によって、習慣となるほどに私たちの精神のうちに刻み込むのでなければ、後になって、偽りの外見のためにその真理を信ずることから逸らされてしまうかもしれないのです」
「精神のうちに刻み込む」つまり記憶することの重要性が説かれています。しかし、何を記憶せよ、というのでしょうか。デカルト曰く、日常生活で「正しく判断する心構えでいつもいるために必要な」「真理」です。
一度たりとて同じことの繰り返しのない毎日の生活は、予測のつかない出来事の連続です。そこで上手く身を処するためには、できるだけベストな判断を下さなければならない。その際に必要となってくるのが、正しく判断するための拠り所、参照軸です。
デカルトはそれを「真理」という強い響きの言葉で表現しているのです。この哲学用語については前章でも取り上げたばかりですが、ここではその意味として、例外なくいつどこの誰にでも当てはまること、また、誰もが同意ができることくらいに理解しておいてください。本章では、このしっかりと記憶すべき「真理」について考えてみたいと思います。
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