名刺ゲーム

日本人の誰もが好きな名曲がもし、覚醒剤を打った人の曲だったら?

――消したい記憶、あります。消せる方法あるんですか?  身動きのできない人質の和也は、自分の父親と謎の男との対決を見ながら思い出していた。あの「先生」が教えてくれた心の傷の忘れ方と、互いの寂しさを埋めるための契約のことを……。ついに謎の男の正体が明らかになる、衝撃の3rdStage。心に刺さる言葉満載の『名刺ゲーム』!

3rd Stage
4 神田和也

 玉虫色のスカーフを巻いた男、薄井先生が「サクセス」と叫ぶと、パパが三枚目の名刺を返した相手、松永累は帰っていった。壁に手錠と一緒に打ち付けられた僕の腕はしびれて限界だったよ。そんな僕を見て、薄井先生が僕の口に貼ってあったガムテープを剝がしたんだ。飲み込めなかった唾液が一気に溢れ出てさ。出し方を忘れそうになった。声を全力で振り絞って叫んだんだ。

—パパ、パパ、パパ、パパー!

 薄井先生は首から上を一気に吹き飛ばすことができる爆弾のスイッチをパパに見せつけながら、何度も叫んでる僕の口のシャッターを閉じるように再びガムテープを貼り付けた。それを見たパパが僕の目を見て、叫んでくれた。

—和也、絶対助けるから。全力で助けるから!

 勇気が恐怖心を越えた。格好いいパパ。パパが僕のことを真剣に考えてくれたのはいつ以来? パパは今から四枚目の名刺を返すことになる。まだパパは気づいてない。パパの右手に残っている三枚の名刺のうちの一枚、「大山高校教諭 薄井忍」の名刺は、目の前でゲームを進行している司会者、玉虫色のスカーフを首に巻いてる男、薄井先生のものなんだってことに気づいてない。

—残りの名刺三枚。どうします? 休憩? それとも続ける? 続けますよね? 時間ないから。

 薄井先生の口から淡々と繰り出される言葉は、催眠術師の言葉のように体に溶けて入り込んでくる。最初の授業からそうだった。

 生物の担当で、あとで知ったけどパパと同じ年。小太りだけど、いつも玉虫色のスカーフを巻いていた。そこだけはこだわり。あのスカーフの光沢がオシャレというより、なんか不気味さを感じさせた。

 薄井先生は生物室の水槽で蛙を飼っていた。正確にはおたまじゃくし。おたまじゃくしを育てて蛙に成長させる。その蛙が卵を産む。すると、卵を産んだ蛙を川に逃がして、また卵からおたまじゃくしになり、蛙になるまで育てる。その繰り返し。おたまじゃくしから足が生え始めて蛙に変わっていく、そんな大多数の女子がグロテスクに感じる時が一番美しいと思っているらしい。生き物が成長していく過程をこんなにも分かりやすく見せてくれる生き物は蛙くらいだ、と。その淡々と繰り返される行為がまた不気味さを際立たせていた。

 あまり笑顔を見せることもない。他の先生と仲良く話す姿を見ることもない。職員室ではなく生物室の自分の机に座って、本を読むかネットで調べもの。誰かに媚びようとして生きてない。教室の人気者になってやろうとか、他の先生が持つ邪心がない。

 僕が出会ったことのない大人。みんなの評判は良くはないけれど、僕は気になっていた。

 高校に入った時に、僕は他の生徒よりも色んなものが見えてしまっていた。パパのおかげだよ。テレビ局員だったパパのおかげで、小学生の頃から羨ましがられたり、妬まれたり、足を引っ張られたりしてきた。人間の怖さを勉強できていた。そして、高校生になる頃にはパパの「ミステリースパイ」は人気番組になっていた。

—和也君のパパって、「ミステリースパイ」作ってるんだよね?

 みんな誉めてくれる。でも、誉め言葉の先には自分の欲がある。出演しているタレントのサインをもらってほしいとかスタジオ観覧に行きたいとか。だから、誉められても喜ばないという体質になっていた。人気はいつしか失われる。「ミステリースパイ」だってそうだ。

 もう懲り懲りだ。パパの人生に自分の人生が引き込まれていくのは。親子と言ったって一心同体じゃない。だからパパの作ったものが認められようが、僕には関係ない。そんなことで喜ばない。パパと自分を断ち切ることが自分を守る一番の方法。クラスのみんなと一定の距離を取る僕は、不気味な存在に見えたのかもしれないね。薄井先生と同じように見えてたかも。

 薄井先生はロリコンだなんて噂も出ていた。体育の授業を見つめて勃起してたとか。それが気持ち悪さを増していた原因の一つ。

 薄井先生は授業で脳の話をよくしてくれた。

—脳は面白い。だから生き物は面白い。

 僕はどんどん先生に引き込まれていった。最初の授業では海馬の話もしてくれた。脳の海馬というところで、必要な情報とそうではない情報を整理していること。

—僕の授業は海馬で仕分けして捨てないでくださいね。

 淡々とした口調で言ったのでみんな笑えなかったけど、僕だけニヤついていた。薄井先生と目が合ったんだ、あの時に。

 薄井先生の授業での話は記憶に残る。特に忘れられないのは、近くの高校で覚醒剤を使用した生徒が逮捕されたというニュースが出た日の朝。緊急で全校集会が開かれた。覚醒剤が人体におよぼす影響など、つまらない話を三十分以上。海馬が仕分けしてすぐに捨てたくなる話。でも、その日の生物の授業。

—皆さんはどう思いますか?

 薄井先生は授業の前にみんなにある投げかけをした。

—一人のミュージシャンが作った名曲があるとします。希望の湧く素晴らしい曲。日本で大ヒット。その曲のおかげで何人もの人が自殺することをやめ、生きることを決めた曲があるとする。でも。

 ここまで言うと先生は、蛙のようにみんなをゆっくり見回した。そして続けた。

—その曲を、そのミュージシャンが覚醒剤を使って作った曲だとしたら。どうかな?

 なんだろう。今まで使ったことのない脳の部分を刺激されたような感覚。みんな「どうかな?」と言われても言葉が出ない。出せるはずがない。薄井先生は学級委員の佐野克也を指した。佐野は立ち上がり、学級委員らしさを見せなきゃまずいと思ったんだろうね、一生懸命答えた。

—いい曲でも、覚醒剤を使用して作ったらダメだと思います。

—なぜ?

 その「なぜ」はとてつもなく重かった。「法律で禁止されているからです」なんて言葉を返せるわけもなかった。薄井先生は、優しく佐野の肩を叩いて座らせた。そして言った。

—なぜダメだと思うのか? 理由を本気で考えてください。一生考えてください。

 覚醒剤がダメだと分かり切ってる情報を言われるよりも、覚醒剤について少しでも本気で考えさせる方法を薄井先生は分かっていた。

 薄井先生の話はわくわくした思いを蘇らせてくれたんだ。知らないことを教えてくれる。使ったことのない感情の蓋を開けてくれる。以前はパパが僕にそうしてくれていたように。ある日、思い切って薄井先生のいる生物室に行った。先生の顔はウェルカムではなかった。生物の授業で聞き逃したことがあるフリをして質問を投げると、目も合わせずに答えを返すだけ。一問一答。やる気のないラリーが続く。早く読書に戻りたいという空気を出された。

—脳から記憶を消す方法ってあるんですか?

 授業とは全く関係ない質問をした。脳にまつわる質問。僕が聞いてみたかったこと。薄井先生が初めて目を合わせた。

—なぜそんなことを聞くの? 消したい記憶でもあるの?

 消したい記憶、あった。その時は沙耶ちゃんのことだ。智也の子供を妊娠して転校していった沙耶ちゃん。たまに家で想像してたんだ、沙耶ちゃんと智也が体育館倉庫でセックスしている様を。ボノボのように智也が沙耶ちゃんの中に入っていく。僕の体からも出た真っ白い精液が沙耶ちゃんの体に入っていく。想像すると辛い。気持ちが痛い。なのに、僕はいつもそのことを想像しながら、自然と右手でズボンの上からこすってそのまま射精していた。一回、それをするごとに自分が嫌いになっていった。僕の記憶から沙耶ちゃんが消えてくれれば。何度も思った。

—消したい記憶、あります。消せる方法あるんですか?

—頭でも強く打って記憶障害になり、運良くそこの記憶細胞が消えれば。

—じゃあ、意図的には無理ってことですね?

—そんなに消したい記憶って何かな?

—色々あって。

—好きな人でもいたとか? その子を忘れたいとか?

 蛙のような目で見つめられた、心を見透かすように。「なんで分かるんですか?」と言いたいけど言えない。動けない僕、それが答え。

—覚えておいて。恋してる時は、脳の腹側被蓋野(ふくそくひがいや)という部分が活動するんだ。

 人が恋する時、脳の腹側被蓋野という部分が活動する。ヘロインを打った時にも同じ部分が活動する。つまり、腹側被蓋野というのは快楽の中枢。恋すると他のことに集中できなくなるのは、この腹側被蓋野が活動するからなのだということを、先生は脳の図解を見せながら教えてくれた。

—だからね、好きな子を思い出した時に、落ちついて腹側被蓋野に話しかければいい。

 好きな子を思い出すと、ドキドキする。腹側被蓋野が活動している証拠。緊張して心臓がドキドキしている時に、「落ちつこう」と思うと落ちつけるのは、心臓をコントロールしているんじゃなくて脳をコントロールしているから。だから、腹側被蓋野に「落ちつこう」と問いかければ落ちつけるはずだと、医者が病気を説明するように教えてくれた。

 家に帰ってやってみた。トレーニング。すぐには収まらなかったけど、何日か続けたら落ちつける自分がいて、それが自信になった。

 そうして薄井先生の所に毎日通うようになっていった。脳に興味を持つ僕に薄井先生は、笑顔に近いものを見せてくれるようになった。

—前に記憶を消す方法ないかって言ったよね?

 ある日の放課後、教えてくれた。

—記憶を消す方法はないけど、上書きする方法はあるんだ。脳の癖を摑んだ私の方法。

 とても単純なものだった。イメージトレーニングというか、脳をだますというか。嫌な記憶は、その瞬間をフルカラーの映像で思い出すことが多い。嫌な映像が再生された時には、まずその映像を頭の中で白黒にするようにする。意識的に白黒にしようと思うとそうなる。次にその映像にボカシをかける、意識的に。そして音楽をかける。嫌な映像には合わない楽しい音楽を。それを脳に教えるように何度も繰り返して練習すると、悲しい映像を思い出そうとした瞬間に、楽しい音楽が流れてボカシがかかった白黒映像に変わる。

—それが可能だとしたら。その逆もできるってこと?

—逆? 楽しかった思い出を嫌だった思い出に書き換える?

—そういうことです。

—うん。やっぱり君は面白いね。うん、面白い。

 その日の夜、ママはデパートで買ってきた弁当を電話しながら僕の部屋に置いていった。飼育係が餌を渡すように。パパが何時に帰ってくるのかなんて気にもしていない。電話しているママの顔は楽しそうだ。腹側被蓋野が活動しているのだろう。

 一人、部屋で勉強していると、気配を感じた。こういうのなんだろう。分かるようにできているのかな、人間って。好奇心と罪悪感の狭間。好奇心が勝って、部屋を出た。リビングに行ってみるとまだパパは帰ってきていない。

 次にパパとママの寝室。ゆっくり歩いていく。寝室の扉がちょっとだけ開いている。再びの好奇心と罪悪感の狭間。好奇心が勝つ。僕は寝室を覗いた。

 パパが帰ってきたのは朝方。僕はパパに伝えることに決めた、さっき見たママを。パパ、驚いてた。玄関で「ただいま」と笑顔で迎える僕を見たのは久しぶりだったから。

—まだ起きてたのか? 和也、早く寝ないとダメだぞ。

 僕を心配してる風で、朝帰りを取りつくろう言葉にイラッとした。女性と一緒にいたことを子供に悟られまいとして、ごまかすように口から出た言葉に聞こえて、イラッとした。

—ママは? もう寝てるよな?

 まずはママから聞いているあのことを言おう。知らないフリをするのももう疲れたから。

—ママと離婚するんでしょ?

 ママから「パパから何か聞かれたら、知らないフリしてね」と言われていたけど、ママごめん。大人は多いよね、「聞かなかったフリしてね」って。僕はできない、子供だから。

—ママから聞いたのか?

—うん。パパがずっと言ってくれなかったから、僕から言うことにした。

—ごめんな。言わなきゃと思ってたんだけど、会えなかったしな。

—そうなの? 会おうとしなかったんじゃないの?

 パパが微妙な顔をした。そしてこの日、僕の中でパパに伝えなきゃいけなかったこと第一位を伝える。

—ネットで動物の面白い習性を知ったんだ。「ミステリースパイ」でクイズにして。

 僕は作り笑顔を投げかけた。パパは哀しい。その僕の笑顔が噓だと見抜けないんだから。

—そうなのか? どんな習性だ? 教えてみろ。

 ここからは作り笑顔じゃなく言えたんだ。

—チンパンジーもオナニーするんだってね、雄も雌も。しかも雌は草の茎を使ってオナニーするんだって。

 パパの息が止まったのを見て、僕は笑った。はしゃぐように笑う僕を見て、パパは𠮟った。

—和也、お前、何言ってんだ。

 僕の口から出た言葉が、パパがイメージしている僕と違いすぎて困惑していた。でも僕が本当にパパに伝えたいのはこのあと。僕が三時間ほど前に見た光景。

—さっき、寝室覗いたら、ママ、オナニーしてたよ。

 僕が寝室を覗いた時に見えた風景。ママは恋をしているのであろう男性と電話で話しながら、右手を下着の中に押し込んで激しく動かしていた。エロ動画の中でしか聞いたことのない声をママが出している、そんな風景。

—ママも寂しいんだね。かわいそう。

 このことをパパに伝えた時に、僕の顔からまた笑顔がこぼれていたんだ。

 なぜかって? ママがオナニーしている姿を白黒にしてね、ボカシをかけてね、サンバのリズムを付けてみたらね、その映像が滑稽な風景にしか思えなくなった。

 上書き成功。薄井先生に脳の上書き方法を教わってなかったら、どうなっていたんだろうね、この日の僕は。

 ここからだよ、僕が色んな思い出を上書きしていくようになったのは。リビングを見るだけでパパとの幸せな風景を思い出していた。思い出して胸が苦しくなってた。この数年で過去の幸せな風景が勝手に増幅されている気がした。幸せな風景が苦しい。

 だからさらに、上書き。パパとの楽しい思い出の数々は白黒にして、ボカシをかけ、ガラスをかきむしる音を乗せて、最悪な思い出として記憶に入れておこう。それだったら、思い出しそうになっても安全装置が働いて、楽しかった思い出に苦しんだり、嫌悪感がこみ上げてくるのをストップしてくれる。

 幸せな風景をどんどん書き換えていった。パパとの思い出、パパを思う気持ちに整理がついていった気がした。パパへの気持ちが割り切れてくると、今度は心の中の別の場所に大きな欲求の穴ができ始めた。

この続きは有料会員登録をすると
読むことができます。
cakes会員の方はここからログイン

1週間無料のお試し購読する

cakesは定額読み放題のコンテンツ配信サイトです。簡単なお手続きで、サイト内のすべての記事を読むことができます。cakesには他にも以下のような記事があります。

人気の連載

おすすめ記事

人気放送作家がサラリーマン社会の暗部を抉る、ノンストップ・サスペンス!

この連載について

初回を読む
名刺ゲーム

鈴木おさむ

家族も部下も切り捨て、人気クイズ番組のプロデューサーまで上り詰めた神田達也。ある夜、息子を人質にとられた神田は謎の男から「名刺ゲーム」への参加を命じられる。だがそれは、人間の本性を剥きだしにしていく《狂気のゲーム》だった――。WOWO...もっと読む

この連載の人気記事

関連記事

関連キーワード

コメント

Tweetがありません