「菅っていうの? じゃあ『ガースー』って呼ぶね」
時間を一旦遡る。82年に土屋が『うわさのスタジオ』に配属された少し後、同番組の取材ディレクターに一人の男が加入した。
菅賢治である。この時、28歳だった。
菅は叔母が米兵と結婚しており、両親が共働きだったため、学校が終わると叔母に連れられ米軍基地ですごしていた。だから、米軍基地育ちと言っても過言ではない。音楽も洋楽を聴いて育ち、ミュージシャンを志すようになった。バンドではヴォーカルを担当し、プロデビューも決まりかけていた。だが、本格的に話が進んでいくうちに、自分の才能の限界を感じ挫折。81年頃から制作会社「ユニオン映画」の契約ADとして『それは秘密です‼』などに参加していた。そして、82年、日テレ系制作会社「日本テレビエンタープライズ」(現・日テレアックスオン)に契約社員として入社し、『うわさのスタジオ』に配属されたのだ。
「菅っていうの? じゃあ『ガースー』って呼ぶね」(※1)
居丈高にその男は言った。襟を立てた真っ黄色のポロシャツ、千鳥格子のベルボトムのパンツ。そして水中眼鏡の大きさに見えてしまうレイバンのサングラス。コントなどに登場するようなテレビマンの風貌そのものだった。後に「ヘイポー」と呼ばれる斉藤敏豪である。
「この仕事は、ボクについてれば全部わかるから」(※2)
斉藤は確かに菅の先輩。もう何年もそこにいるかのようなムードを漂わせていたが、実は菅よりわずか一週間ほど早く入っただけだった。そんな斉藤だったが、菅は『うわさのスタジオ』を通して、映像づくりに対する「執念」の強さを何度も垣間見ることになる。たとえば、ロケの場合、いわゆる「情景カット」と呼ばれるような、その場所の風景を伝えるカットはカメラマンに任せて済ますのが普通だ。しかし、斉藤はそうしたワンカットも妥協を許さないディレクターだった。必ず自ら確認しなければ気が済まない。斉藤は菅にとって無二の親友であり、またライバルとなった。
「いつか二人でバラエティーで天下を取りたいね」(※2)
そう誓い合った。
「菅、うるさいから黙ってろ!」
菅は、この番組のプロデューサーである加藤を「人生の恩人」と呼ぶ。
『うわさのスタジオ』にかかわり始めてまだ間もないある日、加藤は菅に囁いた。
「今週、ディレクターがひとり足りないんだけど、卓、座る?」(※1)
卓とは副調整室の「D卓」のこと。つまり、生放送の番組進行を担うディレクターをやってみないかということだ。まだド新人と言ってもいい彼にそれを任せるのは大冒険だ。しかも菅は制作会社の人間だ。本来であれば、加藤が率先して育てる必要はない。だが、加藤は分け隔てなく、「誰でも1回目はあるから、やりたければやらせてあげる」という考え方だったのだ。
右も左も分からぬ菅だったが、1回目は上手く行った。なにしろ、周りはベテランばかり。菅の指示がなくても進行上問題はなかったのだ。だが、2回目はそうではなかった。生放送中、大きな事件が入ってきて現場は大混乱。菅が思いつくままに指示を出し、さらに現場はパニックになる。たまらずスイッチャーが叫んだ。
「菅、うるさいから黙ってろ!」
大失敗だった。こんな失態をしてしまった以上、ディレクターからの降格は免れないだろう。加藤に呼び出されたとき、菅は覚悟を決めていた。
「申し訳ありませんでした」
菅が頭を下げると、加藤は笑って言った。
「テレビっておもしれーだろ、あんだけ心臓飛び出そうな事ないだろ? だからテレビはおもしれーんだよ。来週からもやってみ!」(※3)
こんな人がいる場所なら——。
「自分は一生、この世界でやっていけるかもしれない」(※3)
「日本テレビの社員になるか?」
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