全部やれ。

テリー伊藤の圧倒的企画術!『電波少年』誕生前夜

今や視聴率トップを走り続ける日本テレビ。しかし80年代、日テレは在京キー局で万年3位と苦汁をなめ続けていました。「てれびのスキマ」こと戸部田誠さんによる新刊『全部やれ。』はそんな"落ちこぼれ"だった日テレが、なぜ帝王・フジテレビを逆転できたのかを描くノンフィクション。
発売を記念して『進め!電波少年』そして『ガキの使いやあらへんで!』という人気番組の誕生秘話を紹介します。

きっかけは「『ウルトラクイズ』を作りたい!」

土屋敏男は1979年、日本テレビに入社した。学生時代から何かを企画し演出するのが好きだった。高校時代は学校祭の仮装大会を仕切った。高さ5メートルのベートーベン人形を作り、合唱隊が歌い始めると人形が指揮をするという演出だった。しかし、これは大失敗に終わる。本番で人形の頭を支える紐が取れ、人形の形にならなかったのだ。担当した級友のミスだったが、なぜリーダーの自分がしっかりチェックしなかったのか悔やんだ。その失敗を教訓に、一橋大学時代は学園祭の運営委員会に入り、クラブ対抗歌合戦を企画。大成功させた。さらに山下洋輔や、まだ無名だったタモリらを呼び、当時彼らが結成して話題を呼んでいた「全日本冷やし中華愛好会」の一橋大学大会を行ったりもした。

そんな経験から「人を楽しませる仕事がしたい」とテレビ局入社を志願した。日本テレビを選んだのは佐藤孝吉らによる『アメリカ横断ウルトラクイズ』のような番組をつくりたいと思ったからだ。だが、配属されたのは編成部だった。どうしても制作に行きたい。そう思った土屋が、先輩に相談すると、企画書が通れば行けるかもしれないという。だから、企画書を書きまくった。一年で50本、それを3年間続けた。それでようやく加藤から声がかかり太田班に配属されたのだ。

川口浩が司会した『ザ・ショック‼』や、『元祖どっきりカメラ』を生み出した太田杜夫。彼が指揮する太田班の“代貸し”的な存在だったのが、加藤光夫だった。これが後に加藤班と呼ばれるようになる。

土屋が太田班に入って間もない1982年の秋、午後のワイドショー枠で太田が製作総指揮、加藤がプロデューサーを務める『酒井広のうわさのスタジオ』が始まる。土屋は、この番組の取材ディレクターとなった。

もちろん、やりたいこととはまったく違っていた。誰かの熱愛が発覚すれば約束もなく自宅に行って玄関のチャイムを鳴らし、帰ってくるまで張り込む。毎日、怒られてばかりだった。もちろん、このときはまだその経験が「アポなしで突撃する」面白さや「怒られている大人」の面白さを見せる『進め!電波少年』につながっていくことなど知る由もない。ツラいだけの下積み時代だった。

当時の先輩からは「とにかく帰るな」という今では大問題になるであろう教えを受けていた。仕事が終わったのなら先輩たちと飲みに行け、先輩と麻雀をしろ、と。そもそも、「帰らない」ことを前提にした制作スケジュールが土屋には組まれていたのだ。

『元気が出るテレビ』ってフジテレビでしょ?

そして前述のとおり、85年の『元気が出るテレビ』立ち上げ時からディレクターを務めることになった。『元気が出るテレビ』は「太田・加藤班」のメイン番組。その代表としてIVSに“出向”する形だった。当時、麴町の日本テレビから歩いて10分くらいのところにIVSがあり、そこに“出社”し、会議やロケの仕込みをやって、そのまま帰宅するという日々が始まった。会議も伊藤を筆頭にIVSの社員と作家陣が顔を並べる中、たった一人、土屋が日本テレビ社員として出席していた。

「孤立感もへったくれもなかったですよね。とにかく一人だから、もうしょうがないって覚悟を決めました」

開始から半年間、まったく“使えない”ディレクターだった。だからといって、使わないわけにはいかない。土屋がロケに行くとなると、伊藤が必ずついていき、事細かく指示を出した。土屋が編集すれば、それをIVSの年下のディレクターが手直しする。

どう撮って、どう編集すれば面白くなるのかわからない。悔しい、なんでなんだ……。日本テレビの社員にもかかわらず番組の足を引っ張っているんじゃないかというプレッシャーもあっただろう。それでも、土屋は諦めなかった。

『元気が出るテレビ』は番組開始当初こそ、苦戦したが、放送20回目で視聴率が20%を超えるようになった。

きっかけは東京23区のベスト3・ワースト3を決めようという企画だった。そこでワーストに入ったのが荒川区。番組に対し、区民から抗議が来た。それを受けて始まったのが「熊野前商店街復興広告計画」だ。荒川区の寂れた商店街を番組の力で復興しようというのだ。巨大な「たけし招き猫」像を作りイベントを行った。いまなら警備員の配置や、動線の確保など事前に準備しなければならない。だが、当時はテレビで呼びかけたからといってどれだけの人が集まるか見当もつかなかった。そして、いざ始まると、都電の駅からゾロゾロと人が押し寄せてくる。その数、3000人以上。にもかかわらず、たけしや松方にさえ、警備員は一人もついていない。現場は大混乱だった。

「そのときに『元気が出るテレビ』の方向性が決まったんです」

プロデューサーの金谷は言う。虚と実がないまぜになったドキュメントバラエティがこうして生まれたのだ。

当時の日本テレビのバラエティでレギュラー番組がコンスタントに20%を超えているのは、この番組だけ。まさに孤軍奮闘だった。

「でもね、よく『元気が出るテレビ』ってフジテレビの番組でしょって言われたんですよ」

土屋はそう述懐する。『オレたちひょうきん族』全盛のこの頃、面白い番組といえばフジテレビだった。日本テレビにこんなに面白い番組があるわけがない。それが世間からのイメージだったのだ。だからこそ、土屋はフジテレビを強く意識するようになった。

テリー伊藤との車中問答

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戸部田誠(てれびのスキマ)
文藝春秋
2018-05-11

この連載について

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全部やれ。

てれびのスキマ(戸部田誠)

今や視聴率トップを走り続ける日本テレビ。 しかし80年代、日テレは在京キー局で万年3位と苦汁をなめ続けていました。 「てれびのスキマ」こと戸部田誠さんによる新刊『全部やれ。』はそんな"落ちこぼれ"だった日テレが、 なぜ帝王・フジ...もっと読む

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marekingu #スマートニュース 12ヶ月前 replyretweetfavorite

u5u 公開されました! 12ヶ月前 replyretweetfavorite