茶葉と海藻を「明晰かつ判明に」認識するということ

目の前にある山積みの緑色や黒色の縮れ状の物体を見たとき、私たちはそれをどうやって●●であると「認識」するのでしょうか? それが茶葉の場合、ひとまず茶葉だと「明晰」に知ってから、ようやくそれは海藻ではないと言えるようになる……「認識する」とは何か、ちょっと難しそうなので、『デカルトの憂鬱』の著者・津崎先生にわかりやすく教えていただきます。

16 デカルトは明晰かつ判明に「認識する」 

今や私には、一般的な基準として、きわめて明晰かつ判明に私の知得するものは真であると定めることができるように思われる。 ―『省察』第三

デカルトにとって「真理」とは何か

 どの学問でもそうでしょうが、哲学にも古くて新しい問題があります。「真理論」と呼ばれているものです。真理とそうでないものを区別するための基準は何か、いや、そもそも真理とは何か、真理などというものは存在するのか。こういった問題が扱われます。多くの哲学者がこれに取り組んできました。

 そして、真理をどう定義するか、その違いに応じて「対応説」「整合説」「実用説」「合意説」等々、さまざまな見解が出てきます。なかには真理などという概念は余計だと主張する「余剰説」もあります。本当はこれらのすべてについて簡単な見取り図を示したいのですが、ここは先を急ぎましょう。

 そもそもデカルトは、これらのうちどれに与するのでしょうか。あるいは、与しないのでしょうか。答えは「与しない」です。教科書的に言うと「明証説」というものを採用します。簡単に定義するなら、私たちが「明証的に」、つまりはっきりと、またくっきりと認識しているものこそ真理であると主張する立場です。実際に『方法序説』(一六三七年)の第四部では次のように述べられています。

「私たちがきわめて明晰かつ判明に捉えている事物はすべて真である、これを一般的な基準として認めてよいだろう」

 この引用とほぼ同じことは、本書の二四六頁に掲げた引用文のなかでも述べられていました。これは『方法序説』の四年後に第一版が刊行された『省察』からのものです。

 デカルトはほぼ同じ内容のことを繰り返しているわけですが、それは、彼にとってこの「基準」が決定的に重要だったからです。しかも「基準」と訳したフランス語(『方法序説』の場合)ないしラテン語(『省察』の場合)は、いずれも「規則」と訳しても構わないものです。自分は本当に事物を正しく認識しているかどうか迷ったら、自分はそれを「明晰」に捉えているか、しかも「判明」であるか、これをチェック項目にせよ、というわけです。

茶葉と海藻を「明晰かつ判明に」認識するということ

 それでは「明晰」と「判明」というのは、どういうことでしょうか。ここでは『哲学の原理』(一六四四年)を参照するのが有益です。

 まず「明晰」についてです。第一部第四五項からの引用です。

「明晰な知得と私が呼ぶのは、注意している精神に現れて、また明白なものである」

 ちょっと解説が必要かもしれません。そもそも「知得」という日本語が聞き慣れません。日常会話ではまず使わない。しかし、冒頭の引用のなかでも使われているように、デカルトの考えを理解しようとしたら、きちんと押さえておく必要があります。そこでいささか専門的になりますが、説明しましょう。

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津崎良典

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