藤子不二雄と学年誌と少年サンデー ~『ドラえもん』の静かな始まり①~

2010年代に入ってウルトラシリーズ、仮面ライダー、ヤマト、ガンダム、あるいは「ベルばら」「ポーの一族」等が次々と40、50周年を迎えている。これらは単に昔のものとしてあるだけでなく現役のコンテンツとして新作が発表され、映像化、舞台化されている。逆算すれば分かるが、大半は1970年代に始まった。1960年に生まれ、アニメ、特撮ものを最初期からTVで見ていた中川右介(作家、編集者)が「リアルタイムの記憶を基にして目撃譚」として描くサブカル勃興史。

記憶を辿りながら書きますが公にするからには、記憶にだけ頼り、間違ったことを書いてはいかないので、改めて調べ事実確認をして書きます。歴史家的視点と当時の少年視聴者・読者としての記憶とを融合させ「読者・視聴者としてサブカル勃興期を体験した者が書く歴史」を提示したいと思います(筆者)。

1970年代に始まったコンテンツの最初は『ドラえもん』だ。

『ドラえもん』は1970年1月号から連載が始まっている。1月号は前年12月に発売されるので、厳密には1969年に始まったが、このへんは誤差の範囲としていただきたい。しかし、ドラえもんというキャラクターが広く知られるようになるのは1979年4月、テレビ朝日系列でアニメ『ドラえもん』が放映されて以降で、その間の10年間は「知る人ぞ知る」、つまり「知っている小学生しか知らない」存在だった。

僕は『ドラえもん』に「小学三年生」1970年4月号で出会い、「小学四年生」71年3月号で、いったん別れた。後に『ドラえもん』は「小学一年生」から「小学六年生」まで全学年で連載されるが、当初は「一年生」から「四年生」までだったのだ。そういうわけで、僕は日本史上最初に『ドラえもん』を読んだ数十万人の小学生のひとりとなる。といって、すぐにその魅力の虜となり、夢中になったわけでもない。

『ドラえもん』の作者は当時は藤子不二雄だった。1987年に「藤子不二雄」は「藤子・F・不二雄」と「藤子不二雄Ⓐ」となり、その時点で過去の作品については、2人の合作作品と、F作品、A作品の3つに区分され、『ドラえもん』はF作品となった。しかし別れる以前、僕が小学生だった頃から「藤子不二雄先生」は藤本先生と安孫子先生の2人だということは、まさに小学生でも知っている事実だった。どう分担していたかだけが分からなかった。

本稿では87年以前については「藤子不二雄」と記し、2人を区別する場合は藤本弘、安孫子素雄とする。


●小学館の学年誌と藤子不二雄

1970年当時、小学館の学年誌は「小学一年生」から「小学六年生」まであり、さらに幼年誌『ベビーブック』『めばえ』『幼稚園』「よいこ」を合わせて8誌が出ていた。

小学館の学年誌は「小学一年生」4月号がいちばん発行部数が多い。「ピッカピカの一年生」というコピーのテレビコマーシャルが登場するのは1980年からなので、僕が小学校へ入学した1967年(昭和42)にはなく、学年誌の年間定期購読者獲得商戦はもっぱら「町の本屋さん」の店頭と、その外商による訪問で展開されていた。

小学館はその名が示すように「小学◯年生」という学年誌を出すために創業された出版社だ。1922年(大正11年)のことで、「小学五年生」「小学六年生」の2誌が創刊され、全学年へと発展した。

昭和になり戦争があったが、小学館も学年誌も生き延びた。しかし戦後の1957年、講談社が「たのしい一年生」から「たのしい六年生」までを創刊し、学年誌戦争が始まった。この戦争は小学館の勝利で終わり、1963年をもって講談社は「たのしい幼稚園」だけを残し、「たのしい◯年生」はすべて休刊となった。だから僕が小学1年生になったときは、「小学一年生」しかなかった。

そして—藤子不二雄は、学年誌戦争時代は講談社陣営の漫画家だった。

藤本弘は1933年(昭和8)12月、安孫子素雄は1934年(昭和9)3月に富山県で生まれた。4か月の差で、学年は同じになる。藤本は富山市で生まれ育ったが、安孫子は氷見郡氷見町(現:氷見市)に生まれ、戦争中の1944年(昭和19)9月、富山市へ引っ越した。安孫子が藤本が通う学校へ転校したので、小学5年生で2人は出会い、ともに漫画好きだったので親友になった。

小6で敗戦を迎え、翌年、藤本は工芸専門学校、安孫子は中学へと進学先は別だったが友情は続いた。1947年(昭和22)、手塚治虫の『新宝島』を読んで漫画になろうと決意する。この2人に限らず、石ノ森章太郎や赤塚不二夫など同世代の漫画家はみな手塚作品に天啓を受けている。その意味でも手塚治虫は「漫画の神様」なのだ。

藤本と安孫子は漫画を合作し始め、「毎日小学生新聞」大阪版に1951年12月から1952年4月まで連載された4コマ漫画『天使の玉ちゃん』で商業デビューした。だが、このときは「藤子不二雄」というペンネームはなく、「あびこもとお、ふじもとひろし」となっていた。2人が18歳になった頃だ。その後、手塚治虫の足元にも及ばないという意味で「足塚不二雄」名義で描いていたが、1953年(昭和28)から藤子不二雄となる。

上京するのは1954年(昭和29)で、当初は『漫画少年』(学童社)に描いていたが、同誌は55年10月号で休刊となった。学童社は講談社で「少年倶楽部」編集長だった加藤謙一が興した出版社で、加藤は52年から講談社の顧問に復帰していた。その関係もあり、藤子不二雄は学年誌戦争が始まると、講談社の「たのしい◯年生」に連載を持っていた。

ところが1959年(昭和34)、「少年マガジン」「少年サンデー」が同時に創刊されると、藤子不二雄は小学館の「少年サンデー」に連載を始める。


●「少年サンデー」と藤子不二雄

1950年代は少年誌・少女誌は月刊誌代だったが、この流れに小学館は出遅れていた。学年誌が安定していたので、それと競合しそうな少年誌・少女誌は出しにくいとの判断もあったと思われる。攻撃的な社風だと、他社に読者を取られるくらいなら自社でライバル誌を出せと判断するが、小学館はどちらかというとおっとり型の社風だ。さらに小学館としては自分たちは「学習雑誌」を作り、講談社は「娯楽雑誌」を作るという棲み分けを意識していたのかもしれない。

だが講談社が学習学年誌に参入してきたことで、状況は変わった。さらに出版界では1956年の「週刊新潮」創刊とその成功で、出版社による週刊誌の創刊が相次いでいた。それまでは新聞社しか週刊誌は出せないと考えられていたが、文藝出版社の新潮社がその常識を覆したのだ。こうして週刊誌を出す出版社が増えてくる。

小学館では学年誌の編集者の間で少年向き週刊誌を創刊しようとの声が出て、1959年春を目指した「少年サンデー」の創刊が決まる。それを察知した講談社も「少年マガジン」の創刊を決め、ともに連載陣の獲得へ動いた。

過去の人脈からすれば、藤子不二雄は「マガジン」に描くのが自然なのだが、「サンデー」創刊号から連載した。といっても、講談社と何かトラブルがあったわけでもない。藤子が「サンデー」に連載すると決めたのは、先に連載依頼があったという単純な理由だった。連載を承諾した3日後に「マガジン」からも依頼があったが、週刊誌2誌を同時に描くのは無理だと断った。藤子としても週刊誌は未知の世界なので、どれくらい多忙になるか分からなかったのだ。

恐らく、藤子以外の漫画家への交渉でも「サンデー」が先行しており、創刊号には藤子不二雄『海の王子』に加え、手塚治虫「スリル博士」、寺田ヒロオ「スポーツマン金太郎」と、トキワ荘系作家が並んでいる。とくに「サンデー」にとって手塚を獲得したことは大きく、売り上げ部数で「マガジン」は苦戦する。

藤子不二雄の『海の王子』はSFアクション漫画で、1961年14号まで2年にわたり「少年サンデー」に連載された。これで小学館とのつながりもでき、学年誌にも連載するようになり、講談社が撤退する63年までは「小学◯年生」と「たのしい◯年生」の両方に連載していた。

『海の王子』は「少年サンデー」での連載が終わった後、「小学三年生」に1964年8月号から65年4月号(4月号は「小学四年生」に連載され、これが「サンデーで好評なものは学年誌でも」という前例となった。


●オバQの大ヒット

藤子不二雄はトキワ荘の仲間たちと、1963年にアニメーション製作会社スタジオ・ゼロを設立した。メンバーは藤本、安孫子、石ノ森章太郎、鈴木伸一、つのだじろう、赤塚不二夫らである。

だがこのアニメ会社は儲からず、雑誌部を設けて漫画を共同で制作することになり、その第1作が『オバケのQ太郎』だった。もともとは藤子不二雄に「少年サンデー」から「オバケを主人公にした漫画」という依頼があり、それをスタジオ・ゼロとしてやろうとなったのだ。基本的には藤子不二雄の2人が描き、石ノ森が協力するという形で描かれ、「少年サンデー」、1964年1月発売の4号から9回にわたり連載された。

『オバQ』は毎回読み切り形式のギャグ漫画なので、大きなストーリーがあるわけではなく、第9回もいつものようにドタバタがあって、オチがついて終わっている。最終回らしい「お別れ」の物語ではなかった。9回で終わったのは当初からそれくらいの回数ということでの連載で、人気がないので打ち切りとなったのではない。しかし人気があれば続行となるだろう。9回で終わったのは読者からの反響がまったくなかったからだった。

反響があったのは連載が終わってからだった。もっと読みたいとのハガキが編集部に殺到したのだ。そこで10週間後に、今度はスタジオ・ゼロではなく、藤子不二雄作品として連載は再開された。テレビアニメ『宇宙戦艦ヤマト』も『機動戦士ガンダム』も本放送時は視聴率が低かったが、人気コンテンツというのは、そういうものが多い。

1年が過ぎようとしても『オバケのQ太郎』の人気は衰えず、12月発売の65年1月号から、学年誌の全学年(「小学一年生」から「小学六年生」まで)での連載も始まった。

この年、僕はまだ幼稚園生で、オバQを知るのは8月からのテレビアニメだった。


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この連載について

すべては1970年代にはじまった

中川右介 /角川新書

2010年代に入ってから、ウルトラシリーズ、仮面ライダー、ヤマト、ガンダム、あるいは「ベルばら」「ポーの一族」などが次々と40、50周年を迎えている。それらはみな、単に昔のものとしてあるだけでなく、現役のコンテンツとして新作が発表され...もっと読む

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marekingu 「ドラえもん」の静かな始まり~名作は1970年代に生まれている~ https://t.co/lAhMEQpB3i #スマートニュース 2ヶ月前 replyretweetfavorite

ken_373 #ドラえもん 2ヶ月前 replyretweetfavorite

ikuoya 「ドラえもん」の静かな始まり~名作は1970年代に生まれている~ https://t.co/TMxNNTd630 2ヶ月前 replyretweetfavorite

t_watson https://t.co/0Bq5IyxNOX 2ヶ月前 replyretweetfavorite