「現場がすべて」の辣腕弁護士がはまった落とし穴——中坊公平(2013年5月3日没、83歳)
中坊公平の「公平」という名前は、彼の生まれる前年(1928年)に弁護士になったばかりだった父親が、自分と同じ職業に就いてくれるよう願ってつけたのだという。もともと教師だった父は、勤務先の小学校で校長排斥運動を起こしたため職を追われ、そこから心機一転、法曹界をめざしたという異色の弁護士であった。
4人兄弟の末っ子で、将来は弁護士になるのだからと甘やかされて育った公平少年は、虚弱で、友達と遊ぶことができず、運動も勉強も苦手だった。それを見かねた小学校の担任が、つきっきりで勉強から靴ひもの結び方まで教えてくれたという。
友達が少ないのは、京都大学を卒業し、司法試験に三度目の正直で合格して弁護士となってからも変わらなかった。そのことは、勤めていた弁護士事務所から独立する際、壁となって立ちふさがる。というのも、独立すれば当然、自分で仕事をとってこなければならず、それにはどうしても友人関係など人脈が必要となるからだ。しかしそんなものは一切なかった中坊には、弁護士を続けていくことなどとうてい無理だと思われた。一時は裁判官への転身を考えたりもしたという。
そこへたまたま、経営の傾いた小さな水道バルブ会社を和議の手続き(破産を防ぐため債権者と債務者とのあいだで合意を成立させること)により再建させるという話が舞いこむ。和議事件では、債務の返済のため、資産を的確に処分していかなければならない。幸いにも、戦時中に学徒動員により軍需工場で働いた経験を持つ中坊は、工場の機械がいくらでどこに売れるかということがすぐにわかった。
このとき、彼は工場に足繁く通い、機械がきちんと整備されていないと気づくと、自ら工員たちを指導することもあったという。おかげで彼は従業員たちの信頼を得ることができた。こうした体験を通して、中坊は「現場がすべてであり、現場を知り抜くことが何より大切だ」との信条を持つようになる。
和議を果たしたのち、事件でかかわった人たちが中坊の仕事ぶりを買って、続々と依頼してきた。仕事はさらに仕事を呼び、個々の事件の依頼だけでなく、企業と顧問契約を結ぶことで収入も安定していく。売れっ子弁護士となった中坊は、1970年には、大阪弁護士会の副会長に戦後最年少で就任している。
ここでまた転機が訪れる。森永砒素ミルク事件の被害者弁護団長になってくれるよう依頼を受けたのだ。1955年に起きたこの事件は、森永乳業の徳島工場で製造された粉ミルクに砒素が含まれていたため、1万2000人以上もの乳児が中毒を起こし、うち133人が死亡するという史上まれに見る食品公害事件である。一旦は国が「治癒宣言」を出し、森永も被害者に対し一定の補償額を支払うことで事件は終息したものと思われた。が、それから14年を経た1969年、かつて森永の粉ミルクを飲んだという子供たちに重い後遺症が見られることが、被害者側の調査によりあきらかになる。
1973年、被害者の親たちは国と森永を相手取り、損害賠償請求を起こした。中坊はその弁護団長の要請を受けたものの、引き受けるかどうか躊躇する。この当時、顧問弁護士として多くの企業と契約していただけに、企業を相手に闘うことで仕事を失うのではないかという懸念があったからだ。迷った末に彼は、父親に相談している。老練な弁護士でもある父のことだから、きっと「人におだてられて妙なことをするな」と言ってくれるだろうと思いきや、逆に、「子供に対する犯罪に右も左もない。おまえのようなやつでも皆様のお役に立つのならすぐに行け」と諭されてしまう。
父の一喝で、弁護団長となった中坊は、結果からいえば、原告が提訴を取り下げるという道を選んでいる。この選択もまた、現場をつぶさに見て回って導き出されたものであった。中坊はまず被害者宅をまわって、母親や父親から話を聞き、後遺症を抱えた子供と会い、その被害の実態を目の当たりにする。そこで気づいたのは、多くの母親たちが、国や森永を責めるのではなく、母乳が出ないので粉ミルクを飲ませたがために子供をこんな目に遭わせてしまったと自分を責め続けていることだった。
自責の念に駆られ、苦しみ続けることで子供の痛みを分かとうとする母親たちの姿に中坊は強い衝撃を受けた。しかし、裁判に勝ち賠償金を得たとしても、それで子供たちの健康が取り戻されるわけでも、親たちが老いて死んだあとも彼らの生活が保障されるわけではない。ここから中坊は、被害者たちにとって本当に必要なのは、一時的な賠償金ではなく、永続的な救済だと考えるようになる。
さらにいえば、判決の効力(既判力)の範囲は、現行の制度ではしょせん裁判を起こした者たちに限定されてしまう。原告はたかだか50人あまりにすぎず、2万人いる被害者すべてを救済するには、裁判は現実的に無力だ。
《だから、裁判で勝つことが唯一の目的ではない。むしろ、そちらのほうで、実際、二万人を含めて救済できるための制度を作るほうが大切だろうと、私はそう思ってましたね》(NHK「住専」プロジェクト『野戦の指揮官・中坊公平』)
具体的には、裁判と並行して、国・森永・被害者による三者会談を進め、その結果、森永が加害企業としての責任を認め、被害者に対し救済資金を無制限に負担させることを確約させた。一方、法廷では、この会談で決まった恒久対策を一つひとつ、国と森永にあらためて確認させ、その上で原告が提訴を取り下げていった。1974年には、永久的な救済施設として、財団法人ひかり協会が設立されている。
砒素ミルク事件の経験から、中坊の仕事に対する姿勢は大きく変わった。それまで彼にとって、裁判に勝つことは目的であった。勝てば勝つほど仕事も報酬も増えたからだ。だが、この事件にかかわって以降、被害者の救済こそが目的となり、裁判に勝つことはそのための一つの手段にすぎなくなる。
さまざまな方策を講じながら、被害者を救済へと導いていく中坊の手腕は、とりわけ1980年代に、豊田商事の破産管財人となったときに最大限に発揮された。
豊田商事は、主に独り暮らしの老人を相手に金(きん)の購入をすすめ、現物の代わりに証書を渡すという詐欺の手口で1000億円以上もの額をせしめていた。しかし1985年6月、捜査中に代表者である会長が殺害されたのを契機に破産申し立てがなされた。そもそも現物まがい商法ゆえ、豊田商事の所有する純金は微々たるもので、被害者から集めた金銭も社員への分配や投機で消え、金庫に残されていた現金は1000万円にも満たなかった。3万人の被害者に対し、これでは分配のしようがない。
そんな事情ゆえ、破産管財人のなり手はなかなか見つからない。そのなかで大阪地方裁判所に呼び出された中坊は、裁判官から、「ここまで被害が拡大したのは、国会や行政とともに司法にも責任があるのではないか。いま、最後の救いを求めて破産申し立てがなされた以上、司法に対する国民の信頼がかかっている」と説得され、引き受ける覚悟を決めた。
不可能とさえいわれた債権の回収を可能としたのは、中坊ならではの発想の転換である。たとえば、豊田商事に関して証拠になりそうな資料の類いはほとんど焼却されていたが、残された数少ない書類のなかに、顧問弁護士に関する資料があった。中坊は資料からその顧問料が法外な額だったと知るや、弁護士たちに対し、受け取った全額を返還するよう頼んでまわっている。
あるいは、豊田商事で非常な高給を取っていたセールスマンたちに対しても、給料の返還を求めた。ここでもまた経理の書類など、給与額を明確に示す資料は失われていたが、中坊は、給料支払いの際、源泉で徴収された所得税を返還させることはできないか、と思いつく。もっとも、国税庁の担当者は当初、この提案を一笑に付した。それでも彼は懲りずに、3カ月間、数十回にわたり一人で国税庁に赴いては、そこで担当者に言われたことを事務所に帰って検討し直すというのを繰り返した。