「遅かったじゃないか」
西城はこちらに笑顔を向ける。ということは、西城は七海がここに来ることを見越していたことになる。遅かった、というのは、今日が西城と連絡が取れなくなって、一六日目で、二週間を二日過ぎていたからだろう。
「何してるんですか? どうしてここにいるんですか?」
聞きたいことは、山のようにあった。けれども、何から聞いていいのかわからなかった。それより何より、久々に走ったので、息が切れていた。
その様子を見て、西城は笑顔になる。
「ちょうどいい、たばこにしよう。信くん、たばこにしよう」
西城はもう一人の麦わら帽子の男に言った。
信くんと呼ばれた割に、その男は、そんなに若くはなかった。西城とよく背格好が似ていて、後ろ姿からすれば、どちらがどちらかわからなくなるほどだった。もしかして、西城と同年代か、下手をすると西城よりも上か、四〇代という可能性もあったが、農作業で真っ黒になった
顔に浮かべた笑みが、少年のように素直だった。
「たばこ、たばこ」
話し方も少年そのものだった。七海は、そういうことか、とすぐに理解する。ただし、なぜ西城が信くんと呼ばれるこの純朴な男性と一緒にいるのか、想像もできなかった。
七海の疑問を察したのか、西城は草むらにレジャーシートを敷きながら七海に言う。
「信くんはね、僕の師匠なんだよ。ねえ、信くん」
信くんは、嬉しそうに頷く。
「耕運機って、ほら、あれを引っ張ってエンジンをかけるんだけど、なかなか難しくてね」
西城はオレンジ色の耕運機の横についている、黒い取っ手のようなものを指して言う。七海も何かで見たことがあった。黒い取っ手には、紐がついていて、勢いよく引くことによって、エンジンが回転して、そのままエンジンがかかる仕組みだった。どうやら、それにはコツがいるらしい。
「でも、信くんは一発でできるんだよ。やってみて、信くん」
信くんは頷くと、軍手をはめて、黒い取っ手を摑み、勢いよく自分の背中方向に一気に腕を引き、一発でエンジンをかけて見せる。ぶおん、ぶおんと軽快にエンジン音が田園に響く。ピンクの半袖のポロシャツから出た腕は、筋肉で隆々と盛り上がっていた。
「かっこいい」
自然と言葉がこぼれ出た。一連の動きと、耕運機のエンジンの音と、それを奏でた信くんの右腕が、七海の目にはしなやかに美しく映った。
「信くん、かっこいいってぞ!」
西城が麦わら帽子の上から頭を撫でようとすると、信くんは照れくさいのか、喚わめくように、それから逃れようとした。けれども、顔がことのほか嬉しそうだった。
さらに、西城は続けた。
「信くんはね、『田園の哲人』と呼ばれているんだよ」
「田園の鉄人?」
七海は、うまく漢字に変換できなかった。
哲学の哲人ね、と西城は、近くの地面に石で書いて見せる。
「信くん、空はどうだろう?」
西城は、眩しそうに青い空を見上げて言った。
「広いね」
信くんは同じように空を見上げながら、何か、感慨深そうな顔をして言った。
「じゃあ、信くん、世界はどうだろう?」
今度は西城は空に向かって大きく両手を広げて言った。
「おもったよりも、小さいね」
信くんは言った。
ほらね、と西城は笑う。
「深いですね」
七海もつられて笑った。
「この前、遊びに来た、何ていったかな、世界的なアーティストなんだけど……」
そう言うと、信くんはポケットからスマートフォンを出して、嬉しそうに写真を見せてくれ た。
「これって、本物ですか⁉」
そこには、本当に世界的な女性アーティストが写っていた。しかも、麦わら帽子の信くんとのツーショットで、背景は、間違いなく、この畑だった。背後の老いた柳の木が印象的に写っていた。
「本物だよ、本物。彼女なんか、信くんととても仲良くなってね、それで信くんとやり取りしているうちに、信くんの才能を見抜き、『田園の哲人』って言ったんだよ」
話に乗ってもよかったが、このままではいつまで経っても埒が明かない。西城は核心から逃げる癖がある。核心とは、往々にして、面倒だからだ。
七海はあえて、至極冷ややかな口調と目線で言った。
「で、先生、ここで何してるんですか?」
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