哲学と冒険

躁鬱講座のたたき台

行動、思考、遭遇、あらゆる僕自身にまつわる、その日常のこと、毎日接する物事、それがすべて僕の思想であり、それが僕の哲学であり、それは言語よりも前にある。先にある。先にあるものを僕は毎日生きている。息を吸いながら、それらを見ている。食べている。食べながら、何かをつくろうとしているわけではない。それによって何かをつくりたいわけではない。僕はただそうやって生きたいだけだ。僕は毎日、原稿を書き、絵を描き、歌をうたい、人々と出会い、本をつまみ食いし、画集をつまみぐいする。だいたい毎朝8時更新。お休みすることもあり。


2018年4月21日

 朝起きて、案の定、体は布団の中にまだいたい。もうずっとそうしていたい。というわけで、展覧会はオープンしたが、オープニングがはじまる前、ゆっくりさせてもらった。したいことをさせてもらうのは、なかなか大変なことではあるが、それをやってから確実に体調がいい。体調がいいってことは、それしかないってことなんだろう。どんなに盛り上がっていても、僕の場合は満足したら、その瞬間に、その場を離れさせてもらっている。絵の個展「隕石たち」がオープン。初日、たくさんの人がきてくれた。知り合いもわざわざ訪ねてきてくれた。僕は3時から歌をうたった。声はよく出た。気持ち良く歌えた。しかし、しかしである。体が横になりたがっている。体が一肌を求めている。もうぐったりして、そこに垂れ下がる乳房をただただ舐めていたい。こんなこと書きたくはないが、しかし、この哲学と冒険は思ったことがすべて文字に変わっていく実験である。推敲段階で必ず消されてしまうものをそのまま文字のままで生まれさせていきたい。

「すべての不確かな物事を生きたものとして受け取り、すべての確かな物事を死んだものとして受け取りなさい」

 朝からマルセル・シュオッブ先生の言葉が頭をよぎり、強く頷き、山桜を見ていた。さすがにもう人に会いすぎたのかもしれない。最近は、体の扉がぶはっと開き、どこからでも人が入ることができるような空間をつくっていたし、僕や小さな僕たちも、その扉をどんどん通過し、小さな階段や、穴を見つけて、いろんなところに顔を出してきた。自分の直感は、ぐらぐらと揺れ動いては、卵の殻からするりと抜け出る恐竜の赤ちゃんのように、伸びていき、根は空に、どこまでも、広がって、その根を歩く自分も現れて、そこで家だけでなく、街をつくったり、法律なんて必要ないと言い張る男がその街の広場で、音楽隊と一緒に、高らかな声で、うたっていたりしていた。そんなわけで、体は人のために、僕の体をなめてなめてどうぞ、好きに使ってください、みたいな遊女精神が溢れでていたのかもしれない。その反転、というか、いや、僕だってそうだ。僕だって人を貪っていたいわけだ。僕は触感が大事で、触れていたい。しかし、僕は一人でギャラリーの中で歌っていた。1時間歌って、大満足し、その瞬間に体は「もうお家に帰りんしゃい。帰って、好きなことを好きなだけやっときんしゃい」と言ってきた。「しかし、今日はオープニングだし、そんなこと言っても、みんなきてくれてんだし」と言い返そうとしたが、その言い返そうとしている僕はおそらく、嘘の僕で、それは社会の僕で、そんなこと考えてはいなかった。というわけで、みなさんにお礼を伝え、ゆっくりしていってくださいと言い残し、僕は車で家に帰ることにした。その瞬間に、体がふわっと軽くなった。不思議なものである。しかし、大事なことは鬱に落ちてない! これは今、実験しながら、日々実感していることである。こんな簡単なことだったのかと僕はびっくりしている。

 ゆっくりしたいのか? 今、どんな気分だ? ゆっくりしたいとは思いつつも、寝たいというわけではない。一人で考えたい。一人でやりたいようにやりたい。もちろんいちゃいちゃも引き続きしたい。セックスについての本を書きたい。今、そういうものが書きたい。それなら今すぐ書けばいいわけだ。というわけで、さっそく帰りの車の中で書いている。これもいつか本になるのだろうか。そういうものがたくさんある。僕には形になっていない思いつきの断片がたんまりある。実はそればっかりなのである。形になっているのは、そのうちのいくつかがうまくいっただけで、僕は集中力があるわけではない。下手な鉄砲数打ちゃ当たるってだけだ。セックスと編み物が趣味である。金がいっさいかからない。どんなときでもできる。そして、人を喜ばせることができるし、同時に自分も気持ちいい。本当にどうでもいいことを書いている気もするが、僕にとっては非常に重要なことである。

「自由とは意識がみずからの裡につくりだす現実のことだ」

 ヘーゲル先生の言葉がささっと通り過ぎていった。この文の塊を、こういう状態にしたい。そういう気持ちが胸の中を満たして、僕の体を楽にさせた。僕は自分が今、つくりだしているもの、それがわからない。何を書いているのか、何を描いているのか。なんで椅子をつくったのか。編み物は一体、何か、僕はこの日記を書いて、なにをしようとしているのか、個展でもなにを、小説だってなんのことやらわからない。それでも僕はやる前に、いろんな理由をこしらえる。それを人に伝える。人は深く頷いたりする、それで企画が通過したりする、ときにはやる前からお金をもらえるときだってある。しかし、どれも冗談にすぎないのだ。なぜなら僕がわからないのだから当てずっぽうでしかないし、どうせそのときに考えていたこともまたすぐに変わる。

 僕はこの「変わる」という状態が気になっていて、変わることが好きなのである。シュオッブ先生じゃないが、変わるということに対してだけ、生きている実感がある。取るに足らない感情すべてが気になっている。それらは常に変わるものだからだ。感情こそ、僕がいつも見ていたいもので、僕の中で一番わからないものだし、どうすれば喜ぶかも想像できないし、それでもふと自分がしたことで感情が楽になったりすると、とても嬉しい。もちろん、それは同じことをしても次が同じようになるとはかぎらないし、それがうまくいかないことに感謝している。それが変化であり、その変化こそ、力があり、それこそが創造の原点なのだが、はっきりいって、この絵を描いて、それで評価されたりすると、もうその時点であらゆるものすべてが終わってしまっているのである。そのときに終わりだと感じ、感じたならばまた変化するということを繰り返して生きたい。そうすると、はっきりいうと、金にはならない。だから難しい。ときにはそんなふりをする必要もあるかもしれない。僕が映画撮影で気が楽だったのは、その変化自体に監督が興味を持ってくれたからかもしれない。絵も描くが、それも変わるし、文も書くが、考えていることは常に移動し続けている、そういう言葉をいうと、監督は興奮していた。その状態こそ、そのときにしか撮れないものができる、と確信しているような顔をしていて、それを見たとき、僕がいっさい窮屈さを感じなかった。窮屈でないこと。これが僕にとっては一番重要なのだが、そういうことをまたやっていこうと思えた。絵の個展もやり、僕の絵は少しずつ成長していると思うのだが、それに満足せず、また全然知らない自分の方法や状態を知りたいと思った。

 家に帰ったらまた新しいことに取り組みたい。今は僕は何かを探求している。それが何かはうまく伝えることができているのかはわからない。僕はほとんど誤解されているところもある。誤解されない人なんているわけがないが、僕は何かを探求している。それは文でも絵でも歌でもない。哲学でも冒険でもない。なんだろ、なんだろ。僕は何を探求しているのだろう。そのことを考えている。それがわからないからいろんなことに手を出すのか、いや、僕はいろんなことに手を出しているのではない、僕は支離滅裂に見られているのかもしれないが、分裂しているわけではない、僕はむしろ一心に探求している。だから何かがよくできたからといって、それでその方向の何かが見えるわけでもないし、自分に適した表現法が見つかれば、それで終わりで、それを追求していけばいいと安堵するわけでもない。僕の中ではもうすでに探求がはじまっているのであり、僕は何か観念をつくりたいわけでもない、何か典型の方法論を作り出したいわけでもない。人間からなるべく離れないようにしている。離れないまま、動いて、それは休みなく動いて、たとえ僕が静止しているときでも動いているものを、それの動き自体がそのまま観念をあらわしてみたい。それが自然でいるということだ。それが自分のままでいるということで、自分のままでいるかぎり、どんどん自分でないものが入り込んでくる、それを人は直感というが、それは自分の直感ではない。自分の趣味嗜好とは離れていく。それは自分でなくなる状態だ。だから人は扉を閉める。自分の思考というものがあるという状態でいようと試みる。しかし、力を抜いたらいい。自分の所有について、どんどん離れていったらいい。そう僕は自分に言ってみた。影響は断片的で一時的なものだ。それよりも自分が感じているもの、通過していったもの、それらの運動や速度、そこで起きた数々の人知れず消えていく一瞬の出来事、そういったものすべてを、そのまま再現してみようとすること。その時間差をできるだけなくそうとすること。

 帰ってきたら、躁鬱講座のたたき台をつくった。つくりたくなったからだ。

この続きは有料会員登録をすると
読むことができます。
cakes会員の方はここからログイン

1週間無料のお試し購読する

cakesは定額読み放題のコンテンツ配信サイトです。簡単なお手続きで、サイト内のすべての記事を読むことができます。cakesには他にも以下のような記事があります。

人気の連載

おすすめ記事

FURUMAI (Errand Press Postcard Book)

坂口 恭平
エランド・プレス
2015-07-31

この連載について

初回を読む
哲学と冒険

坂口恭平

行動、思考、遭遇、あらゆる僕自身にまつわる、その日常のこと、毎日接する物事、それがすべて僕の思想であり、それが僕の哲学であり、それは言語よりも前にある。先にある。先にあるものを僕は毎日生きている。息を吸いながら、それらを見ている。食べ...もっと読む

この連載の人気記事

関連記事

関連キーワード