□ しかく 春

□ しかく 春 (4/4)

「あの女の目ん玉をくりぬいておいてほしい。」残された飛んでもない命令に水垣鉄四はどうする?? 阿部和重最新小説『□』から一つ目の短篇『春』を全文無料公開! cakesでは、阿部和重『□』刊行記念インタビューも掲載中されています!! 『□』で挑んだ創作における自由とは?―― 阿部和重『□』刊行記念インタビュー

 スモーキングルームのドアを開けると、花貝さえずりは昨夜とまったく変わらぬ様子でそこにいた。
 不気味なほどに、花貝さえずりが身動きをせず、ひと言も声を発しないので、息絶えているのかという疑いがにわかに浮上する。
 水垣鉄四は恐る恐る、一歩一歩彼女に近寄っていった。
 花貝さえずりの正面に立ち、その顔に目を近づけて凝視してみると、彼女のや鼻先がホコリで汚れているのがわかった。
 息をしているのか見定められず、彼女の口もとへさらに接近してみると、濡れている猿ぐつわの下端から涎がたれ落ちるところを水垣鉄四は目撃した。
 涎の雫は、一瞬きらめきながらも薄闇のなかに飲みこまれて消滅した。
──おはようシモジマリュウヘイ。
 いきなりそう話しかけられ、水垣鉄四はビクッとなって退いた。彼は危うく尻餅をつきそうになった。
──おれはシモジマリュウヘイではない。
 水垣鉄四はとっさにそう答える。
 すると花貝さえずりは、ピクリともせずに声を出し、平然たる態度で応答した。
──そんなことはわかっている。おまえの正確な名前を言ってみろ。
 その高圧的な物言いに、水垣鉄四は戸惑った。第三者が耳にしたら、どちらが監禁されている身なのかと混乱してしまいかねない。
 どう応ずるべきか、少し迷ったが、優位にあるのはこちらじゃないかと自らに言い聞かせ、水垣鉄四は正直に名乗った。
──水垣鉄四だ。
──なんだそれは?
──だからおれの正確な名前だよ。
──ああそうか。ミズガキテツシか。それがおまえの正確な名前か。まあまあってところだな。
 傲岸不遜な話しぶりに加えて、しらじらしいほどのすっとぼけ方。昨夜の花貝さえずりとは別人と話しているような気になる。
 この女はいったい何者なのかと警戒心が募り、水垣鉄四は探りを入れる。
──あんたこそだれなんだ? ボランティアの花貝さえずりというのは本物のプロフィールなのか?
──そんなことはどうだっていい。
──おれは正直に名乗ったんだぞ。そっちも正直になれよ。
──あたしはこれからおまえを乗りこなすことにする。
──はあ? なんの話だ?
──シモジマリュウヘイは外出中だな?
──ああそうだ……しかしじきに帰ってくる。
 自分が優位にあるのはたしかだが、それを微塵も実感させない奇妙な迫力を、花貝さえずりは放ってくる。その迫力に気圧されてしまい、水垣鉄四は半分嘘をついた。
──ああそうか。しかしじきに帰ってくる? それは嘘だろう。つまらん真似はやめろ。
 この発言により、花貝さえずりの力の強さがついに明らかになった。
 彼女は嘘発見器だ。こちらが思ったことを即座に解読できて、自分の思考をこちらに送りこめる。花貝さえずりと称する女は、そういう能力の持ち主にちがいない。
 水垣鉄四は冷や汗をかいた。そこまでのことができる人間に相対するのが、はじめての経験だからだ。
──なるほどあんたはそういうやつか。どうりで口も動かさずにしゃべれるわけだ。トランプゲームにあそこまで強いのも頷ける。それでなんだ? 縄を解いて逃がしてくれとでも言いたいのか?
 花貝さえずりは急に黙りこくった。
──そうか。逃げるのは無理だって理解したのか。そいつは正しいよ。あんたは逃げられないんだ。ご愁傷様。
 花貝さえずりはなおも沈黙していた。
──どうした? なぜしゃべらないんだ? 力つきちゃったのか?
 いつまで経っても、花貝さえずりは口を開かないため、水垣鉄四は煙草を吸いはじめた。スモーキングルームで煙草を吸うのは、彼にとって初のことだった。

 

 花貝さえずりが黙りこんでから、二〇分ほどが経過したときのこと、
──ミズガキテツシ。
 いきなり名前を呼ばれ、水垣鉄四はまたしてもビクッとなって退いた。
──なんだ?
 花貝さえずりは相変わらず微動だにせず話しかけてくる。
──おまえにはやるべきことがあるはずだ。
 水垣鉄四はギクリとする。
──返事をしろミズガキテツシ。おまえにはやるべきことがあるはずだ、そうだろう?
 どこまで読まれているのかとふたたび警戒しつつ、水垣鉄四は「ああ」と返答する。命ごいでもする気なのだろうと、彼は見当をつける。
 ところが花貝さえずりは、予想とは正反対のことを言いだした。
──ミズガキテツシ、なぜおまえはいっこうにそれをやろうとしない? せっかくあたしがチャンスを与えてやったのに、おまえはナイフ一本手にすることもせず、のんびり煙草なんか吹かしている始末だ。おまえは本当に腰抜けの役立たずなんだな。シモジマリュウヘイが危惧していた通りじゃないか。
 咎め立てはさらにつづいたが、水垣鉄四はこらえた。相手の意図を推しはかるべく冷静になり、急いで彼は対処を検討した。
 おおかたこれは、こちらを逆上させて隙をつくり、そこをついて逃げだすための挑発にちがいない。
 ついさっきこの女は、馬鹿正直にも、「あたしはこれからおまえを乗りこなすことにする」などとはっきり宣言していた。
 わざわざ手のうちを明かしてくれているのだから、むざむざ利用されてはなるまい。
──おれが腰抜けの役立たずだって?
 水垣鉄四は反撃に出た。向こうの狙いにかかったふりをする作戦だった。
──ちがうのか?
──あんたの目ん玉を取り出すことくらい朝飯前だよ。
──それならなぜさっさとやらん?
──気が向いたらやろうと思ってたところだ。
──いや、ちがうな。シモジマリュウヘイは早く済ませろと注文している。なのにおまえは未だその準備もしていない。どうだ? これが答えだよ。おまえは腰抜けの役立たず以外の何者でもない。
 水垣鉄四は高らかに空笑いしてみせた。
 そして彼は、いったんスモーキングルームを出てダイニングを抜け、調理場に入った。
 いちばん扱いやすい果物ナイフを調理場から持ちだした水垣鉄四は、すぐさま花貝さえずりの前に戻った。
 ナイフの切っ先を顔面に直接突きつけてやれば、いくらこちらの考えが読めても不快感くらいはおぼえるだろう。
 どのみち体の自由を奪ったままにしておけば、こちらの優位が崩れることはないのだと、水垣鉄四はあらためて自らに言い聞かせた。
──ほらよ。準備できたぞ。あとはやるだけだな。簡単な話だ。
 水垣鉄四はそう言い放つと、果物ナイフの先端を花貝さえずりの額のあたりへ近づけていった。
 黒い目隠しの布地越しに、彼女の眉間をナイフの先で二、三度突っつくと、皮膚の感触が右手に伝わってきた。
 これでちょっとはビビッてくれるだろうか。ナイフの腹に映りこんだ自分自身の瞳を、水垣鉄四は一瞥する。
 ところが次に聞こえてきたのは、花貝さえずりの笑い声だった。
──その程度の発想しかできないとはびっくりしたぞミズガキテツシ。そちらの考えがまるごとこちらに筒抜けだとわかっていながら、だまされたふりか。幼稚園児のお遊戯じゃないんだぞ。
 作戦は効果なしと知り、水垣鉄四は脱力してその場にへたりこむ。ビビッていたのは、むしろ自分のほうだったと思い知り、溜め息ももれる。
 するとそのとき、またもや上階からズドンという重く鈍い音が響いてきて、細かいチリがパラパラと舞い落ちてきた。
 昨夜と異なるのは、それが立てつづけに、何度も生じたことだった。
 はっとなってあわてて身を起こし、即刻退室しようとしながらも、出入り口と花貝さえずりを交互に見て、思い迷っている水垣鉄四に対し、
──よく聞きなミズガキテツシ。あと数分で、ここの天井は底抜けする。つまりもう一、二分もすれば、八〇〇〇〇冊の本の雨がおまえの頭上に降り注ぐわけだ。そしたらおまえは首の骨を折って即死だよ。これはあたしのしわざだ。この窮地から逃れたければ、おまえがやるべきことを済ませるんだ。そうすれば、あたしの念力は弱まり、本の雨は降ってこない。それ以外に、おまえが無事でいられる方法はない。
 水垣鉄四の視線は天井に釘付けになっていた。
 細かいチリはなおも舞い落ちており、粉雪が牡丹雪へと変わりつつあった。
──嘘じゃないな?
──信じられんのなら、ドアが開くかどうか自分でたしかめてみればいい。
 全速力で出入り口めがけて突進し、全身で体当りした水垣鉄四は、ドアが固く閉ざされていることを確認する。
 水垣鉄四は、顔中を汗で濡らしながら再度天井を見やり、つづいて花貝さえずりを睨みつける。
 そして彼は覚悟を決め、叫び声をあげてもとの居場所へと駆けていった。
──そうだ。いいぞミズガキテツシ。その調子だ。
 水垣鉄四は、思いきって花貝さえずりの目隠しを取り去る。
 するとこちらを見つめかえしてくる、花貝さえずりの白い花模様の眼球に気勢をそがれ、思わず彼は目をそらしてしまう。
──ミズガキテツシ、いいことを教えてやろう。あたしのこの体は、本物の生体じゃない。つくりものだ。だから気に病む必要などまるでない。躊躇なくやってしまえ。
──本当だろうな?
──もちろんだ。だからあたし自身が、さっきからこうしておまえに勧めてるんじゃないか。そんなことすら教えてやらなければ気づけないのかと、またあたしはあきれているところだよ。
 天井の軋みにはすでに、板が割れだす音がまざりはじめていた。
──おい早くしろ。間に合わなくなるぞ。
 チリはもはや牡丹雪ですらなくなり、ちいさな木片の落下が相次いでいた。
──でもさ、あんたの目ん玉をくりぬいて、念力を弱めたからといって、本当に無事で済むのかな。むしろ逆のことになるんじゃないのか? 天井はもう崩壊寸前だぞ。
──さあどうだろうな。しかしどっちみち、おまえのとり得る選択肢はひとつしか残されていないわけだ。だとすれば、とっととやるしかないんじゃないのか?
 そのとき、だれの耳にも断末魔に聞こえるだろう、天井板の割れる音がスモーキングルームに鳴り響いた。
 それを合図に、水垣鉄四はいっぺん鼻から息を大きく吐きだすと、左手で花貝さえずりの頭部を抱えこみ、彼女の左目の目尻にナイフを刺し入れた。
 その直後、ギャアアアという絶叫が水垣鉄四の脳裏に轟いた。
 凄まじい血しぶきが、水垣鉄四の顔面に向かって噴きだしてくる。
 上半身が血だらけになりながらも、水垣鉄四は短時間のうちに、花貝さえずりの両目を取り出すことに成功した。
 呼吸を整えて、ふと上を仰ぎ見ると、八〇〇〇〇冊はあろうあまたの書籍が、水垣鉄四の頭上数センチメートルのところまで落下しつつもそこでぴたりと止まっていた。
 ブドウ狩りにでも来たみたいだと、水垣鉄四は思ったが、季節はまだ春だった。

 

 鉄錆臭のような血の臭いにむせながら、水垣鉄四は訊ねた。
──本当に大丈夫なんだろうな?
 空洞になった目もとを黒い目隠しで覆い隠した花貝さえずりは、笑いまじりの穏やかな口調でこう答えた。
──まったくおまえは心配性だな。あたしが嘘をつかないってことは、充分にわかったはずだ。現に、頭の上にあった本も全部ちゃんとかたづけてやっただろう。
 花貝さえずりの言う通り、八〇〇〇〇冊はあろうあまたの書籍は今、スモーキングルームの床上に、壁際に沿うようにきれいに置き並べられてあった。
──納得したならさっさとやるんだ。これにはタイムリミットがある。グズグズしている暇はない。それになんにせよ、そうすることはおまえにとってメリットしかない。
 水垣鉄四は頷き、花貝さえずりの指示にしたがい、彼女の眼球を自身の両目に接着させ、二人の視界を共有した。
──よしいいぞ。じきにつながるからおちついて待て。そろそろくるぞ。
 なんべんもまばたきや眼球運動をおこなううちに、自分の視力が格段にあがったことに水垣鉄四は気づいた。
 しかも単に視力が向上したばかりでなく、花貝さえずりによれば、ズーム機能や熱感知機能や暗視機能や透視機能までもが備わったとのことだった。
──凄いな。まさかこんなふうに見えるようになるとは。信じられない。
──よしリンク完了だ。ミズガキテツシ、準備はいいな?
──ああいいよ。
──それではいくぞ。われわれふたりで絶対に、角貝ササミの息の根を止めなければならない。

(『□ しかく 春』おわり )

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阿部 和重
リトル・モア

 

 

 

 

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阿部和重

阿部和重、最新小説『□』から、一つ目の短篇『春』を全文無料公開! 「角貝ササミを蘇らせるには、まずは三六五日以内に、 特定の四つのパーツをすべてそろえなければならない。」 烏谷青磁(からすやせいじ)のこの言葉から水垣鉄四(み...もっと読む

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