哲学と冒険

僕は言われるままにサインをした

行動、思考、遭遇、あらゆる僕自身にまつわる、その日常のこと、毎日接する物事、それがすべて僕の思想であり、それが僕の哲学であり、それは言語よりも前にある。先にある。先にあるものを僕は毎日生きている。息を吸いながら、それらを見ている。食べている。食べながら、何かをつくろうとしているわけではない。それによって何かをつくりたいわけではない。僕はただそうやって生きたいだけだ。僕は毎日、原稿を書き、絵を描き、歌をうたい、人々と出会い、本をつまみ食いし、画集をつまみぐいする。だいたい毎朝8時更新。お休みすることもあり。

2018年4月16日

 今日は朝から撮影だったのだが、どこからどこまでが撮影なのか、僕にはわからない。もちろんスタッフはそこらじゅうにいた。みなヨーロッパやアメリカの各地からやってきていて、日本人はいない。これでどうするのかと思っていたら、黒人のロイって子が近づいてきた。
「僕、ロイって言いますはじめまして」
 ばりばりの日本語だった。ロイが僕とスタッフをつなぐコーディネイターみたいな役割を担っているようだ。僕はまだ目覚めたばかりなのである。まだパジャマ姿である。ライティングの調整などをやっているスタッフたち。金髪の女性が一人、奥にいた。
「はい、あたしジェシー」
 彼女はプロデューサーだと名乗ったが、二十歳くらいの女の子にしか見えないし、サングラスかけていて、ほっぺにはタトゥーなのか落書きなのかわからないが、save moneyと書いてある。しかし、とても心優しい人だった。弁当を買ってきてくれていた。ロイがみんなに配っている。カメラマンは数年前、オスカーで撮影賞を獲った人だった。みんなにはルームと呼ばれていた。ルームはモヒカン頭であとはスキンヘッド。メガネをかけていて、とにかく明るい前向きなやつだ。ルームが手に持っているカメラをまじまじと眺めていた。その後ろに、黒人のガンモ。彼はルームのアシスタントで、モニターを持つ、ルームが撮影している映像の色や光量などを調節しているようだ。茶色の髪のロンドンっ子みたいな細身の男の子がやってきて、僕のパジャマにマイクをつけた。彼はジェイと言って、マイク担当。スチール撮影はニューヨークからやってきたアレックス。ニュージャージーに住むブルース・スプリングスティーン好きのアジア系アメリカ人アランがスチール用の照明をつけるための金具であるセンチュリーを僕の部屋の各所に配置している。それをさらにルームが撮影している。

 僕の家の住所は教えていたが、ただ鍵はかけていなかった。勝手に入り込んでいいとは言ってない。ジェシーが、「今日から、いろんなことが起こると思うの、でも、それはすべてあなたが巻き起こしている。あなたが生み出している。あなたが呼びこんでいる。あたしたちだってそう。あなたが呼んだの。召喚したってことかもね。でも、心配しないで、この機密事項を確認してサインしてくれたら、すぐにあなたに出演料は払うわ。つまり、これは見た目はれっきとした仕事よ。これは映画の仕事で、あなたは俳優なの。あなたが望むか望まないかは別として、あなたはもうすでに眠っているし目を覚まし、今、あたしたちの前で、驚いている。この現状にとまどい、それで目を丸くしている。その表情を撮りたいの。さあサインして」
 ジェシーはシワくちゃの紙切れを手渡してきた。そこにルームのカメラがさっと近づいてきて、僕の手を、ペンを持って署名する僕の手を接写した。
「さ、よーいはいいか?」
 後ろで声がした。知っている声だ。それは電話で話したあの映画監督だった。僕が彼の顔を見ると、彼は黙ったままウインクをした。
「キヨウヘ! もうはじまってる。まずはサインのシーンから行くぞ、すぐニホンの代理店がやってくる、そいつらもみんな本当に生きているやつらだ。ここには俳優は一人もいない。ところがこれはフィクションじゃない。ノンフィクションでもない。何が起こっているのかおれにもわからない。ただ面白くなりそうだってことだけだ」
 そう言うと、ジェシーが両手を相撲取りみたいにパンと鳴らした。ルームのカメラが近づいてきて、僕の手は震えていた。しかし、ここで引き下がっても面白くない。そうだ、僕は本能に従うって決めた。それで本能に聞いた。
「契約書をちゃんと読め、わからないことがあれば、逐一、見逃さずにちゃんと質問しろ」
 僕の頭の中から声が聞こえた。しかし、同じような声が部屋の中でも、つまり、僕の頭の外からも聞こえている。

 これは台本か。指示なのか。監督は静かにモニターを眺めている。
「キヨウヘ!」
 名前を呼ばれた。僕はすぐに文字を読んだ。契約書の文字を読んで、気になる箇所を一つ一つ確認することにした。ギャラの欄を見ると、2000000ドルと書いてある。
「これは本当か?」
 僕はジェシーに聞いた。
「あたしは嘘は言わないわ。あたしはジェシーとして生まれてきたし、今もジェシーなんだから。このタトゥーは衣装だけどね」
 そう言うと、ジェシーはSAVE MONEYと書いてある文字を唾をつけた人差し指で官能的に触った。SAVEが溶けて、GIVEに変わっていった。
「ジェシーに金をあげろというサインなのか?」
「それは契約書には書いてないわ、それはあたしがそう思っているってこと。それよりも契約書に早くサインしてくれないかしら、次の撮影もあるんだし、今はまだテストみたいなもの。早くして」
 僕は言われるままに、サインをした。すぐに日本人がやってきた。メガネをかけたパーマ頭の青年。
「鮫島と言いまして、リンクフリーファクトリーのビジネスマインドマネジメント事業部のものです。今回は、スラックという名前のイギリスの製作会社からの依頼で、代理店を務めさせております。詳細は追って、話しますので、まずは撮影中ということで、この契約書だけ預からせていただきます」
 そう言うと、鮫島は足早に去っていった。そのまま、僕はただ生活をした。朝起きて、歯を磨いた。顔を洗ってタオルで拭いた。すべて僕の家で行われている。しかし、歯ブラシもタオルも、それこそ洗面所も鏡はうねっていたし、どれもこれも僕のものではなかった。どれも完璧にセットが入れ替わっていて、確かに僕は目が覚めたから自分の家だと思っているが、部屋を眺めても、どれ一つとして僕の家にあるものは何一つなかった。

 ここはどこなのか?

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坂口 恭平
エランド・プレス
2015-07-31

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坂口恭平

行動、思考、遭遇、あらゆる僕自身にまつわる、その日常のこと、毎日接する物事、それがすべて僕の思想であり、それが僕の哲学であり、それは言語よりも前にある。先にある。先にあるものを僕は毎日生きている。息を吸いながら、それらを見ている。食べ...もっと読む

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