まるで分厚い繭を引き裂いて、無理やり人が入ってきたみたいな気分だった。あまりにとつぜんで、怒ったり、かなしんだりする余裕なんてない。なにが起きたのかさえわからなかった。
「ゆうちゃん、透明になるの? 超かっけえじゃん」
めぐるは変形ロボットに興奮する子供のように、きらきら目をかがやかせて言った。
「うそだ、どこがかっこいいの。だって消えたいんだよ」
ぼくはこわれてしまった繭を繕おうと必死だった。しかしめぐるますます興奮するばかりだった。
「えー、だって透明っしょ? スケルトンっしょ? 超かっけえじゃん。ゆうちゃんやばぁ〜い」
そういえばめぐるの好きなアメコミ映画かなにかに、ボディがスケルトンのヒーローがいた気がする。ぼくは頭をクラクラさせながら、冗談じゃないぞ、と思った。人様の役に立つために透明になろうなんて、まさか思っているわけじゃない。
だいたい、いきなり繭がこわれたりしたら、なかの虫はどうなってしまうんだろう。もしかすると、永遠のいもむしになってしまうんじゃないか。
「あ。いいこと思いついちゃった。言ってもいい?」
パニックを起こしかけているぼくの隣で、めぐるは屈託なく言った。
「な、なに」
ぼくはお腹にぎゅっと力を入れて、衝撃を受ける態勢を整えた。勘弁してくれ。これ以上ぼくの繭を壊さないでくれ。
「あたしさ、記録係になろっかなって思うんだ。ゆうちゃんが透明になるまでずっと、カメラで追いかけるの」
「えっ……」
と言ったきり、ぼくは言葉を失いかけた。「……それって、どういうことか聞いてもいい?」
「つまりさ、協力するってこと。あたし、ゆうちゃんが透明になれるよう、協力する!」
「協力なんていらないよ。ひとりでできるもん」
ぼくは子どもみたいなことを言った。
「でもあーた、自分で自分が透明かって、どうやって判断するの。写真は写るよ。いろんなものが写るよ。だから撮らせてほしいんだけどな。もちろん、ゆうちゃんさえよければね」
たしかに、透明になる過程をだれかに記録してもらうのは、わりといいことかもしれない。うまくいったら、博物館に飾られちゃうかもしれないぞ。
「でもぼく、写真って苦手だよ」
「なら、苦手そうにしてるところを撮るよ。そのまんまを撮るよ。それならかんたんでしょ?」
ぼくはもう、イエスと答えるしかなかった。
「わかったよ」
「ほんと? まじ? やったー!」
めぐるは思いきりバンザイして、ちょんちょこりんに束ねてあった髪をぱっとふりほどいた。ごわごわした海苔みたいな黒髪が、めぐるの顔をすっぽり、おにぎりみたいに覆ってしまう。
「あたしね、じつは大学を出てから、ぜんぜんカメラに触れてないんだ。一応バイトではカメラの仕事してるけど、好きでやってるわけじゃないから、あたしのなかではなんも撮ってないことになっててね」
髪に覆われためぐるの顔が、いまどんな表情をしているのか、ぼくにはわからなかった。
「うん」
「なんか、ちょっと距離おきたかったのもある。意味とか、意義とか、そういうのわかんなくなっちゃったっていうかさ。だから、ゆうちゃんを撮ることで、あたしもなにかつかめる気がしてるんだ。図々しいかもしんないけど、撮らせてもらえるなら超うれしい。てか、撮りたい! めっちゃ!」
そしてめぐるは、潮風と遊ばせっぱなしだった髪をきゅっと結びなおし、人生最後みたいな顔でタバコを吸った。視線はとおく、晴海のビル群よりもずっと先睨んでいる。実際それを最後に、ぱったりとタバコを吸うめぐるを見なくなった。なんでかはわからないけど。
めぐると別れたあと、ぼくは頭がごちゃごちゃしていたせいか、なかなか品川エリアから出ることができなかった。走っても走っても、どういうわけか同じ道路に戻されてしまうのだ。やっとの思いで東京タワーを見つけて、ひかりをたぐりよせるように芝公園へ戻ると、ぼくは休憩がてら芝生にねそべって、煌々と輝くタワーを見上げた。
ぼくに、ぼくの人生にいったい、なにが起こってしまったんだろう。
ていねいに回想してみても、よくわからなかった。でも、めぐるに会うまえとあとでは、なにかが決定的にちがってしまっている。
胸はしずかに震えつづけていた。しかしそこには怒りともかなしみともちがう、なにか純粋な興奮みたいなものがあった。
もうだめかもしんない。あるいは良い方へ行ったのかもしんない。なにも判断できなかった。ただ、あたらしいことが起こったのだ。ぼくはそれを受け入れちゃったのだ。それだけは、まちがいのないことなのだ。
翌週末、ぼくはいつも以上に緊張しながら西荻窪に向かった。びっしりと連なった建物の隙間から、なにか鋭いものが、いまにも飛び出してきそうなスリリングな街。オーナーが言うには、いくつか味のある骨董品屋があったというけれど、もうほとんどなくなってしまったらしい。
フリーマーケットの会場は、駅からずいぶんと離れたところにある、いかにも老人会御用達って感じのふるい建物だった。なかはお座敷になっていて、ところどころ腐っているせいか、足を踏み入れたとたんぐにゃりと平衡感覚がおかしくなる。なんだか時空さえ歪んだ気がした。
めぐるはそんなお座敷の隅っこで、いそいそとブースを広げている最中だった。傍にはごつい一眼レフと、ちっぽけなデジカメと、ポラロイドカメラがきれいに並べて置かれている。どうしよう、ほんとに撮るつもりなんだ。
「おっ、ゆうちゃんおはよ! 今日もお腹が痛そうだね」
めぐるはぼくに気がつくと、よりによって周りに聞こえるようなおおごえで言った。ぼくははずかしくて、ほんとにお腹が痛くなってくる。
「どうしよう。トイレあるかな」
「あるよ、そっち。玄関の横。いっといで」
ぼくは荷物をめぐるの隣に置くと、そそくさとトイレへ向かった。その背中に、早速ポラロイドカメラのシャッター音がぶつかってくる。
なんてこった。
ぼくは薄汚い和式の便器でふんばりながら、つくづく後悔の気持ちでいっぱいになった。だけどこういう事態にならなかったとしたら、ぼくはあのとき、めぐるになんて言ってほしくて打ち明けたんだろう。どんなふうに、話を聞いてほしかったんだろう。
会場には、画家だというめぐるの友達を中心に、同世代のイラストレーターや、なにかしらの表現活動をしている若者たちが大勢集まっていた。みんなそれぞれの作品なり、パフォーマンスなりを売っていて、とてもハングリーで気だるい空気が流れている。
ぼくは慣れない雰囲気にちょっと面食らいながら、いつも通り淡々とおもちゃを並べていった。こういう場所では、なにも言わないで、淡々とした人のふりをするに限る。もしも口を開いたら、なにもないってことが、きっとすぐにばれてしまうから。
「ゆうちゃん、おもちゃそんなに売ってへいきなの?」
めぐるが怪訝そうにぼくのブースを覗きこんで言った。ぼくはほんとのことを言うかどうか迷って、とりあえず引っ込めておくことにした。
「たくさんありすぎるからね。最近こうして売るんだ」
「そうなんだ。ふーん」
めぐるのブースには、一度使っただけだというコーヒーメーカーや、年季の入った木彫りの椅子、花瓶、むかし着ていたワンピースなんかが並んでいた。
「あたし、フリマってはじめて! やばい、売れるかな。いくらならちょうどいいかな。つーかみんな買うかな、うちのおふるのコーヒーメーカー」
「安くすれば売れると思うよ」
ぼくはフリーマーケットの先輩として得意げに言った。
「えーっ。あたしあんま安いってわかんない。こわい。あとあたしだったら、知らない人のつかったコーヒーメーカーなんて、安かったら逆にいらないわ」
たしかにそうかも。
すると早速、おそろいのパステルカラーのトレーナーに身を包んだ、双子みたいな女の子ふたり組がやってきた。どう見ても服飾系の学生って感じだ。
「セーラームーンじゃん。ねえちゃんが持ってた。なつかしい」
ぼくは例によってなつかしいということばにムッとしながら、「お安くしますよ」とできるだけおだやかに言った。めぐるはそんなぼくを、まるで知らない人みたいにながめている。
ふたりは軽くぼくに会釈すると、ちょっとした暇つぶしでもするようにおもちゃに触りはじめた。
「いまセーラームーンのおもちゃってすげー高いんだってさ。テレビでやってた」
「そうなの? じゃあこれ買って転売しよっか」
ぼくはどうしてか、こういうことを目の前で言っても平気なやつだと、しらない人に判断されることが多い(男の人だともっとひどい)。もちろん毅然とした態度をとる勇気なんてないので、ぎこちなく微笑みながら、ぶっころすぞ、ぶっころすぞ、と心で唱えていることしかできない。
「あ、でもこれわりとかわいいかも。ちょっとほしい」
そう言って左側の女の子が手にとったのは、まぼろしの銀水晶のペンダントだった。うさぎちゃんたちが、死にものぐるいで探していた聖石を模したおもちゃだ。ずっしりした金の台座に、うすいピンクのアクリル玉が、お姫さまみたいにちょこんと乗っかっている。
「1000円でいいですよ」
ぼくがそう言うと、女の子は興奮したように目をかっと開いて、頬を紅潮させた。
「え、ほんとですか? なら買おうかな」
「あはは、まじか。転売しなよ。1万円くらいになるからさ」
しかし女の子はそれに乗っかることなく、ぼくを見て言った。
「いや、大切にします。だって、きっと大切なものだったんですよね」
たとえうそでも、三歩歩いたら変わってしまうていどの気持ちでも、やっぱり大切にしてくれそうな人に、ものをつなげるのはうれしい。
「はい。大切にしてもらえたらうれしいです」
神さま、ぼくもう殺人鬼をやめます。
「くそ——っ、あたしのコーヒーメーカー、やっぱり売れなかった!」
ちょうど女の子たちが去っていってから、めぐるがくやしそうに髪をかきむしって言った。ぼくが殺人鬼になったりしているあいだに、だれかにコーヒーメーカーを売りつけようとして、あえなく失敗したらしい。
「やばい、あたしのコーヒーメーカーやっぱ売れないのかも。ゆうちゃんはなんか売れた? 」
「うん、セーラームーンのペンダントひとつ」
「いいなーっ。いくら?」
「1000円だよ」
「えっ、安すぎない?」
めぐるはぎょっとした顔をしていた。
「でも、大切にしてくれそうだったよ。それに手放したいだけだから、お金なんてべつにいいんだ」
ぼくは言い訳みたいに言った。
「そゆことじゃなくて、 なんかおもちゃへの敬意っていうか、そういうのどこいったの?」
「そんなの最初からないよ」
ぼくはうそをついた。頬がつっぱって、自分でも意固地な顔をしているのがわかる。
「えっ、どうしてそんなひどいこと言うの?」
「ひどい?」
「ひどいよ。まじで意味わからん、なんで? なんか泣きそうになってきた」
ちらりと見ると、めぐるのブースに並んでいるものは、どれもそれなりの値段をつけられている。コーヒーメーカーだって2000円する。花瓶だって2000円だ。
おそらくめぐるは、なにも売れないままフリーマーケットを終えるだろう。だけどめぐるは、そうなるとわかっていても、コーヒーメーカーに2000円をつけたにちがいない。
ぼくだってほんとはそうしたい。ひとつひとつにしかるべき値段をつけて売りたい。でも、価値も意味もぜんぶ捨てたいんだ。それが消えるってことなんだ。
せっかく会場の雰囲気に慣れてきたのに、ぼくたちのあいだにはギスギスした空気がながれていた。こんなにかなしい土曜日を、たったひとりの友だちに与えてしまうのは、残りすくない人生にしてもかなしすぎる、とぼくは思った。
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