哲学と冒険

職業という行為から離れる

行動、思考、遭遇、あらゆる僕自身にまつわる、その日常のこと、毎日接する物事、それがすべて僕の思想であり、それが僕の哲学であり、それは言語よりも前にある。先にある。先にあるものを僕は毎日生きている。息を吸いながら、それらを見ている。食べている。食べながら、何かをつくろうとしているわけではない。それによって何かをつくりたいわけではない。僕はただそうやって生きたいだけだ。僕は毎日、原稿を書き、絵を描き、歌をうたい、人々と出会い、本をつまみ食いし、画集をつまみぐいする。だいたい毎朝8時更新。お休みすることもあり。


2018年4月10日

 僕の一つの動きは、全体を通して見ないとわからない。画家のタッチ。それが僕の行動、あらゆる行動のもとになっている。タッチが気になる。タッチのことを気にして行動しているわけではない。タッチしかできない。タッチのままにやる。何をやるべきか、そんなことはわからない。何をやりたいか、それならどんどん出てくる。何をやりたいか、そして、それをなぜやらないのか、やればいいじゃないか、それは食べていくことができないからか、そんなことなぜわかる、それに従えば、今の食べていくことなんか、誰かのルールでしかないし、それで稼いだとしても、それはその誰かのルールの中で正解なだけだ。そういうことではなく、何かしたい、何をやりたいか、それを僕は人々と語り続けたい、そして、それができるかできないかとか判断する前に、ついつい行動してしまうような、わけのわからない状態にしたい。なぜなら僕が今わけがわからないからだ。僕は何をしている人か、そんなこと何もわからないのだ。僕は何もわからない。わからないから動かないということではない。わからないから動かないんじゃない。動く人はわかるから動かない。自分がどうなるかわかると思っている。もちろんそれも勘違いだ。わからないから動いている僕も勘違いだ。どちらも勘違い。闇の中、霧の中、雨の中、わからない人間がいる。それがどうするか。立ち止まっていては寒いだけ、腹が減ったらどうする? そこらへんにあるよもぎをまずは口にすればいい。もっと食べたくなったら、火をつけて、油をステンレスの鍋に注いで、小麦粉でてんぷらをつくってみればいい。それでいい。それでいいんじゃないかとフーとアオに言った。働きに外に出ようとしたらアオが、いかないで、と言ったからだ。それでいいならいい。それでいい、ということになった。

 というわけで、三人でアオの靴を買いに行った。ビルケンシュトックのサンダルを買った。午前中に行ったアオの病院ではじめて会った山本先生は小児整形の達人のようで安心した。手術はまだしなくていいと言われ、アオもほっとした。それでも足の長さが違うから、それで骨盤が歪まないように、背の違う靴をはいて、調整したほうがいいと言われた。今、アオの靴のサイズはどれも左に2センチの厚底をくっつけている。そうやってバランス保っている。見てたら、僕は自分で靴をつくってあげたらいいんじゃないかと思った。靴をつくりたいと思った。僕の動機はいつもこうである。何かが起きる。みんな大変そうな顔をしている。毎回、靴の厚みを変えなくちゃいけないなんて大変なんじゃないか。そうか、本当にそうか。だから手術するのか。アオはいやだと言う。子供はみんな手術なんていやだというのは当たり前だから親が説得させたほうがいいと前の医師に言われたが、本当にそうか。アオが感じていることをそのままにしたほうがいいのではないか。僕は子供が判断できない人だとは思わない。子供も常に判断している。僕が小さい頃、親の関係などすべて把握していた。だから、僕も妻との状態、それらはすべて子供たちは把握しているのである。だから隠しても仕方がない。もちろん、全部何もかも言う必要はないが、隠しても無駄だから、説明を求められたら、話すしかない。ま、なんだかんだあったが、アオは手術をしなくてすんだ。そのかわり靴を毎回調整する必要が出てきて、僕が靴をつくりたくなっている。アオにいうと「靴は買うほうがいい。パパ、靴つくりやらなくていいよ」と優しく諭された。悔しくなって「いや、君の靴をつくるんじゃない。僕は自分の靴をつくろうとしているんだ」とごまかした。

 お昼はフーとタイ料理屋ピントンに。今度の坂口家体制の仕事について話しあった。フーはジュエリーがつくれるんだから、家計の足しに今すぐはならないとしても、つくっているという状態は大切だから、少しずつつくってみたらどうかと優しく伝えた。優しく伝えないと、落ち込んでしまったり、意固地になったりするので、うまく伝達できない。フーもそうよねえと言ってくれた。好転するのを祈るばかりだ。その後、僕は喫茶「さかむら」に行って(今日は仕事場の橙書店がお休みなのだ)原稿を書く。10枚書き上げる。編み物も少しやる。さかむらで平松洋子さんの娘さんの平松麻さんのペインティング作品を見る。いい感じだ。さかむらの骨董をしばらく物色し、自由な気持ちになる。何かを見て、何かをつくりたくなる。それが自然だ。だから何か見たら、すぐ僕はつくりたくなる。だから、どれも集中できずに、ついつい手を出しちゃって、どれもこれも素人みたいなもんだが、それでも気にするな、そういうことではなく、僕はタッチ、その人間のタッチを表すことが、自分の仕事だと思っている。昨日の夜は偏頭痛で、頭がかち割れそうだった。そうすると、さかむらの店主坂村くんも昨日頭が痛かったらしい。お客さんでも2、3人そう言っていたとのこと。偏頭痛って一体、なんだろう。そんなこと考えると、また本を書きたくなってしまう。偏頭痛って一体、なんだって本。生活がそのままいつも質問帳になっている。もちろん、それですぐに音楽医院をつくっても、びっくりされる。しかも、僕は飽き性だ。だから、すぐに飽きちゃう。でも、僕は書くことは飽きない。これは不思議なことだ。いや、編み物も飽きてないじゃないか。絵だってもう1000枚近く描いている。歌だってうたってる。僕は飽き性じゃないかもしれないと今思っている。自分についての認識は毎日変化する。これは今、偏頭痛がないからかもしれない。

 さかむらを出たあと、白川河川敷を歩いた。気持ちよくなって、よもぎを摘みながら、手でつぶして匂いを嗅ぎながら、ミントが生えていたので、採集して、家に帰って、この前、ヒロシの工房でもらってきたシナモンの木肌をいれて、それでシナモンミントティーをつくった。みんなもシナモンティーはつくってみたらいいと思う。僕はアラブ首長国連邦に昨年仕事で行ったときに、たくさん買ってきた。シナモンの樹皮を鍋にいれて、煮出して、その後30分くらいそのまま放置して、熱を冷ますと、シナモンの天然の甘さが出て、ほんとうにおいしいシナモンティーができあがる。それを河川敷でやっていた。何をやりたいか。靴をアオにつくってあげたい(もちろん、これは隠れてやる。まずは自分の靴をつくって、その出来を娘に自慢したらいつかきっと依頼される日がくるはずだ。自分で靴をつくるってのはなんだか楽しそうじゃないか。生活が豊かに感じられるはずだ。でも、娘はまだ買うという行為に夢中になっている。僕があまりにも0円で通しすぎたのだろう。拾ったものとかでつくれるとか言っても、自分で編んだら服を買う必要がない! とか言っても、娘と息子は買うことが好きだ。ま、自分でつくるのは大人のたしなみなので、いつかきっと理解してもらえるはずだ。ゴリ押しすると、さつまいもやスイカを幼い頃食べ過ぎた人みたいに、大人になったらまったく食べなくなってしまうので、そっとしておくしかない)。

 偏頭痛の本を書きたい(その他、治療系としては『編み物をして躁鬱が治った!』という本も面白いと思う。編み物と躁鬱治療のビルディングスロマン二本立て、読みながら、編み物がうまくなり、躁鬱も安定するという優れもの)。あと、今日は絵本を描きたくなった。高山なおみさんの絵本を見てたら、気持ちがふわっと浮き上がったからだ。やるかやらないかは問わずにメモメモ。メモをしておけばいつか実行に移すときがくる。大抵はそのままスルーして終わってしまうのだが、僕の人生は「下手な鉄砲数打ちゃ当たる」と高校生のときに弟に突っ込まれた生き方をそのまままだ続けている。生きれているだけで、奇跡! なのである。僕はそうだと思う。器用貧乏と言われ続けていたが、レヴィ=ストロース先生によると、酋長は器用でないとまずやっていけないのである。だから、他の職業にはうまく合わないかもしれないが、僕は酋長にはきっと向いている。ただ、今は誰もが安倍晋三を酋長だと信じているのだから、僕の出番がないだけだ。うん、それでいこう。いつかきっとわかる! そういえば、音楽家の前野健太はいつか僕の歌について「これ、死後発掘されるやつだよ!」と言った。ああ、そうか、僕は死後、発見されるタイプのやつか、そう考えると、いろいろと合点がいくと思ったことを思い出した。それでも、今、生きている。僕は生きている。それで少なくない人々のところに、僕の文や絵や歌が届いているのだから、しかもいのっちの電話には、たくさんの人から電話がかかってきているのだから、それだけでも素晴らしいじゃないかと今、改めて思った! 僕は生きている。死後、発掘されてもいいけど、なぜなら僕がいつも励まされる芸術家はみな死後発掘されている人が多いから、でも、僕は生きているうちに人々と交感したい。

 僕の目的はそれである。僕は生きている、だから、人々と交感したい。それだけだ。それ以上のことはない。酋長とは人々と交感したい人のことなのかもしれない。それが職業? これは職業なのか? 人間は職業という行為から離れなくちゃいけないんじゃないか。職業から遠くへ。それが僕がやりたいことである。子供のときはそうじゃなかったからだ。でも、子供なんて、と人はいう。子供の落書きなんて、落書きにすぎない。もちろん、僕はジャクソンポロック大好きだから、そうも思う。それも理解できる。ポロックは子供の落書きとは雲泥の差だ。ポロックは考えている。だから僕も考えたい。だが、だからこそ、か、あらゆる混沌を感じつつ、僕はそれでも、自分があの幼い頃、それこそ、今のアオくらいのときか、自分がなんでもつくることができる製造機(このころ、なんとか製造機という言葉にくらくらしていた)であることに気づいたあの瞬間のまま、行動をしてみたいと思っている。モラトリアム以前の問題であるこれは。ピーターパン症候群か。そうかもしれない。しかし、症候群は病気ではない。症候群は症候群であり、それは幾千もの星の集まりだ。まだそれは一つの惑星になっていない。何者でもない。だから規定するな。自分を規定せずに、次のものへ、変身するまま、油を売り続け、しかし、それでどうやって食っていくのか、その問題にごろんごろんと泥のようにまじりあって、それでもやれるもの、それでも形を見せたもの、こうやってできあがった文、その過程で起きた人との出会い、そのタッチ、絵筆を動かした瞬間の動き、僕はそれらをぜんぶひっくるめて、僕の行動としたい、それは職業ではない。

 といいつつ、喫茶店の珈琲人で、原稿を書いていたらまたひょんな電話。「こちらアメリカ企業PR制作会社なのですが、今月の16日に日本で会議がありまして、そちらに出演していただきたいのですが」というわけのわからない依頼。

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坂口 恭平
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2015-07-31

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坂口恭平

行動、思考、遭遇、あらゆる僕自身にまつわる、その日常のこと、毎日接する物事、それがすべて僕の思想であり、それが僕の哲学であり、それは言語よりも前にある。先にある。先にあるものを僕は毎日生きている。息を吸いながら、それらを見ている。食べ...もっと読む

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