哲学と冒険

議論の場にはあがらない議題を人々は抱えている

行動、思考、遭遇、あらゆる僕自身にまつわる、その日常のこと、毎日接する物事、それがすべて僕の思想であり、それが僕の哲学であり、それは言語よりも前にある。先にある。先にあるものを僕は毎日生きている。息を吸いながら、それらを見ている。食べている。食べながら、何かをつくろうとしているわけではない。それによって何かをつくりたいわけではない。僕はただそうやって生きたいだけだ。僕は毎日、原稿を書き、絵を描き、歌をうたい、人々と出会い、本をつまみ食いし、画集をつまみぐいする。だいたい毎朝8時更新。お休みすることもあり。


2018年4月8日

 車輪のシーン。車輪がぐるぐる高速で回っている。自転車の車輪。カランカランと音が鳴っている。さらに加速する車輪。少しずつカメラが引いていく。自転車は改造に改造が重ねられていて、イージーライダーみたいなかっちょいいバイクみたいな自転車。AKIRAのあの未来のバイクみたいな感じ。使っているのは、廃材。そして、アルミや鉄板などの屑金属。モーターもついていて、ガソリンで高速で走ることができる。そこに乗っている僕。椅子をつくったからか、頭が手作業でつくるモードになっていて、自転車までつくってしまった。白川の河川敷を突っ走っている。後ろに荷台を引いていて、荷台の上には拾ってきた屑がたんまり山積みになっている。ハンドルについている無線ボタンを押し、無線で連絡を取る。ハイテクが装備されてはいるが、すべて手づくりである。ローテクとハイテクが合体している状態。最新機器をガムテープで修理しながら生還したアポロ13のイメージ。これは石山修武師匠から教わった感覚。開放系技術と氏は言っていた。それが今またこちらに向かってきている。あそこでの日々は新作「建設現場」に投影されている。この小説も日の目をあびるのか。まだよくわからないが、新潮社に原稿だけは送った。とりあえず僕は次をつくるだけである。

 次、次、と次のことをイメージしながら、僕の頭はまったく別の方向へ。自転車が突っ走っている目の前の光景からだいぶ遠くまできてしまった。そして、自転車の車輪のクローズアップ。大きめの石を踏んでしまって、僕は河川敷沿いの草の丘の上から河川敷まで転げ落ちていく。椅子づくりでたくさん傷ができたというのに、さらに擦り傷、切り傷。顔にも傷ができた。いてててとうめく僕。煙をあげ、車輪は中空で回り続けている。いて。誰かが頭を叩いた。センゾウおっちゃんだ。僕は朝の仕事中だったことを思い出し、思い描いていた風景が少しずつ粒になって、元いた場所に戻っていくのを見ながら、後ろを振り返った。いたのはアオだった。お、そうだ今日は仕事を休みにして、子供たちと一緒に遊ぶ予定だった。すっかり忘れて僕は自作の自転車に乗って遊びほうけていた。というわけで、一緒に子どもたちとつくった家まで自転車を引きながら帰ることに。自転車はまた壊れてしまった。熊本にどんな古い車でも、修理してくれる村本自動車という修理工場がある。店長の村本さんはもう80歳になるのだが、この人の技術は相当なもので、部品が壊れても、決して、新しい部品をメーカーから取り寄せたりしない。村本さんはそれがたとえベンツであろうと、日本車の古い車の部品を改造して、それで直してしまう。この自転車も村本さんと一緒につくった。ほとんど村本さんがつくったといっても過言ではない。僕はいつもそうだ。僕はイメージを持ち、そのイメージをとにかく職人さんたちに伝える。そうやって少しずつ具体的な形にしていく。熊本にはまだそういう不思議な職人たちが残っている。あまり頑固な職人さんだと僕とウマが合わない。少し柔らかく、新しいものにも興味を持ってくれる人、なによりも、物語を感じている人。僕がときどき夢想する物語の中の、その村の住人であること。そういった人を現実世界で見つけたとき、何かが起きる。そうやってこの自転車もできた。自転車もみんな自分たちでつくればいいのにと思う。

 どんなものでもできる。アオはよく同級生に僕のことを「この人に依頼すれば、なんでもつくってもらえるよ、全部ダンボールだけどね」と言う。僕はダンボール界のスーパースター。一戸建ての家だろうが、BMWだろうが、ダンボールでつくっちゃう。学生の頃、弟と一緒に大量のダンボールをスーパーからもらってきて、つげ義春先生の『ねじ式』の町中に入り込んでくる機関車をつくったことがある。スモークまで炊いて、それでビートたけしの元気が出るテレビみたいに代沢五丁目の角で待機していて、人がきたら、巨大な機関車で向かっていくといういたずらをしたことがあるが、そのときの記録写真は今でも家に飾ってある。というわけで、僕が子どもとつくっているのはダンボールの家である。といってもペンキで白く塗っているので、見た目は大草原の小さな家みたいなアメリカンカントリー調である。僕はモンドリアンのアトリエが大好きで、ツタの絡まった木の家が好きだ。このダンボールの草原の家にも少しずつツルが絡まり始めている。

 春がきた。アオと二人でそこらじゅうで繁茂しているよもぎを摘んで、焚き火をして、午前中はずっと鍋で煮詰めていた。これでできるのがヨモギエキス。これはお茶にすれば美味しいし、栄養価高いし、傷口に塗れば、そのまま痛み止め、血止めになる。かゆいところに塗れば痒み止めにもなる。僕はこういった植物のもつ力を、植物合理と呼んでいる。人間は分裂すると、前はああいった、こういっただのうるさいが、植物は常に分裂している。植物は分裂してなんぼ、分裂していることがそのまま合理性を持っていて、それで人間は助けられている。錠剤の薬のように、何に効く、という一方向じゃなく、あらゆる状態に効く、あらゆる状態においても、分裂しているので、常に変化することができる。こういった植物合理のことを考え、それを体に入れていけば、分裂することがもっと楽しくなる。生きていることは分裂し続けることである。一貫性などもたずに、徹底して分裂していこう。僕はいつもそれをモットーにしている。もちろん、問題は山積みだ。生活の中でも。しかし、それだとなぜか僕の心地がいい。その謎が気になる。

 今日はお店屋さんごっこしようということになる。僕はごっこをそのまま現実世界と結びつけてしまう悪い癖があるので、新政府などつくってしまうのだ。でも、そこがいいところじゃないか。僕にはいつも突っ込む批判するやつと、褒め続けるやつがいる。どちらも複数人いて、小学生の運動会のときのように、応援団とかもいる。だから、毎日、体の中でうるさい。体の中でためておくと、大変なことになる。だから、外に出す。この外に出す、ってことが大事なのである。妄想を妄想で終わらせない。そうすると、大変なことになる。昨日の高知の子ども二人からは二軒目の秘密基地の図面が送られてきた。それを赤ペン先生のごとく、すこし改良を加えて、送り返す。なんかよくわからない、謎の赤ペン先生がしたい。いのっちの電話は、そういうつもりでやっている。議論の場に決してあがることのない議題を人々は抱えている。それを胸の中で妄想している。妄想のままとどまってしまうと、水と同じなので腐ってしまう。それが鬱だ。そういうときはどんどん議題にあげればいい。学級会議みたいなものを、どんどんやればいいのだ。どんなにつまらないものでも会議してみる。いのっちの電話では本当にそんなことばっかりやっているように思う。みんな自分の問題は些細なものだと思い過ぎだと思う。僕はそういうのを会議にあげて、議論しあうことが好きだ。だから、困ったら電話してください。というわけで、いのっちの電話に2、3本出ながら、アオとゲンといた。二人は話を聞いている。僕は子どもといるとき、いつもスピーカーフォンで電話に出る。そうすると、アオが「あなたはそんなに変じゃないよ」とか言ったりする。我が家ではいのっちの電話は他人事ではなく、みんなで話しあうべき議題なのである。

 しかし、今日の問題はお店屋さんごっこである。ごっこを超越したい。

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坂口 恭平
エランド・プレス
2015-07-31

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哲学と冒険

坂口恭平

行動、思考、遭遇、あらゆる僕自身にまつわる、その日常のこと、毎日接する物事、それがすべて僕の思想であり、それが僕の哲学であり、それは言語よりも前にある。先にある。先にあるものを僕は毎日生きている。息を吸いながら、それらを見ている。食べ...もっと読む

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