一故人

大杉漣—ぼくはいい俳優になりたいのです

俳優として活躍し、近年はバラエティなどでも魅力を放っていた大杉漣。その急死は多くの人々を悲しませました。惜しまれた彼は、そもそもどのようなキャリアの人物だったのでしょうか。今回の「一故人」は、大杉漣の軌跡と人柄を紹介します。

命懸けの俳優稼業

俳優の大杉漣(2018年2月21日没、66歳)はかつて著書のなかで、一緒に仕事をした映画監督たちから「漣ちゃんは絶対、現場で死ぬなよ」と言われることがあると書いていた。当人にもなぜそう言われるのか思いあたるふしがあり、《確かに、ぼくは眠らないで働く日も多い。しかしもともと丈夫なだけに、普段はめったに寝込んだりしない。死ぬ時は、たまるだけたまった疲れが出てバタッと倒れてこと切れそうな予感が、自分でもある》と明かしている(大杉漣『現場者(げんばもん)』)。彼がテレビドラマ『バイプレイヤーズ』のロケ先で体の不調を訴え、搬送された病院で亡くなったことを考えると、この記述はやはり気になる。

実際、それまでにも現場で倒れたことがたびたびあったという。初めて過労で倒れたのは1999年の冬。深夜帯のドラマの主演として出ずっぱりの撮影をしながら、ほかにもいくつか現場を掛け持ちしていた。普通の人なら参ってしまうのほどのスケジュールなのに、タフにこなす大杉にマネジャーも感心するほどだった。だが、べつの連続ドラマにゲスト出演するため、スタジオに入り、収録を始めたところ、《セリフをしゃべってるのに、身体のリアリティというか、実感がない》と異変に気づく(『現場者』)。

さすがに自分でも疲れていると思い、休憩時間に控え室で横になる。しばらくして目が覚めると、いつのまにか病院のベッドの上にいた。あとでマネジャーに聞いたところ、大杉は控え室で休んだあと普通に起き出して、共演者で親友の田口トモロヲと盛り上がったり、ほかの俳優にも挨拶したうえ、次の出番の収録もちゃんとこなしたという。意識を失って病院に運ばれたのはそのあとだが、当人にはそこにいたるまでの記憶がほとんどなかった。結局このときはすぐに回復し、翌日も仕事に出かけたという。

その翌年、映画とテレビの二つの仕事を抱えながら、伊藤秀裕監督のVシネマ『暴き屋』に主演したときにも、撮影現場で意識を失った。それでも彼は意識が戻ると、ここで休んでは迷惑がかかると思い、近くの病院に駆け込んで点滴を打ってもらう。そして現場に戻って、その日の残りの撮影をこなし、翌日以降も1日も休まず撮影を終えたのだった。大杉が自分の体以上に周囲に迷惑をかけることを気にしていたことは、次の一文からもうかがえよう。

《生身を使う仕事をしているので、注意していてもケガや病気は避けられない。他人ごとのように、「俳優の仕事は大変だなぁ」と思うこともある。ただ、現場では意地でも倒れたくない。撮影中に倒れてそのまま逝くことに憧れがないわけではないが。それがどんなにまわりに迷惑をかけるか知っているから、うかつに現場で死ぬわけにはいかないと思ってしまうのだ》『現場者』

著書ではこのほかにも、あるVシネマの撮影中、銃撃戦のシーンで仰向けに倒れたところ、コンクリートの床から出ていたボルトの先が頭に刺さって大出血したとか、崔洋一監督の映画『犬、走る/DOG RACE』(1998年)では、本物の産廃処理場の池に全身を浸けられるシーンの撮影に、体に支障がないよう万全の対策をとってのぞんだものの、次の日、左手がパンパンに腫れ上がっていたなどといったエピソードがつづられている。

だが、そんなふうにたびたび大変な目に遭いながらも、大杉にはそういう体験もひっくるめて俳優業を楽しんでいた感がある。なぜ、そこまで体を張って仕事に没入することができたのか? 彼の足跡をたどりながら探ってみたい。

3年もいられないと思った劇団に14年在籍

大杉漣、本名・大杉孝は1951年9月、徳島県に生まれた。高校卒業後に上京したが、定職にはつかず、ギターを弾いて歌ったりパチンコをしたり、カネがなくなれば肉体労働で日銭を稼ぐ日々を送っていた。芝居に興味を持つようになったのは、ある劇団の研究生だった同棲相手(のちの夫人)の影響で、当時流行していた寺山修司や唐十郎などの舞台を見始めてからだという。ただし、芝居をやっている人たちの「陽の当たる部分」がどうも好きになれなかったらしい(『婦人公論』1999年3月7日号)。そんな彼が俳優になるきっかけは、劇作家・演出家の太田省吾のエッセイを読んだことだった。

太田は1968年に劇団「転形劇場」の旗揚げに参加、70年より主宰を務めていた。大杉が読んだエッセイは、「劇の方法について」と題して『新劇』1974年1月号に掲載されたものだ(のち『太田省吾演劇論集 飛翔と懸垂』収録に際し「役者の背中」と改題)。そこには《劇はまずはじめに人間の不健全がたどる方法である。劇を行なうにふさわしい者はおそらくこの世に存在しない。存在するのは、ただ現実の生活に適さない面をもった者たちである。そして、そのうちの幾人かが劇を行なうにいたるだけである》などと書かれていた。自分の居場所を探していた大杉青年は、これに心を揺さぶられる。ぜひ太田に会ってみたいと思い、赤坂にあった転形劇場の稽古場を訪ねた。

このとき太田から「役者になりたいんですか?」「劇団に入りたいんでしょ?」と訊かれるも、そこまで考えていたわけではない。そもそも転形劇場の芝居を彼はまだ観たこともなかった。「明日から来られますか? 来る以上、3年は来て下さい」とも言われたが、「3年は無理だと思います」と答えて、その日はすごすごと帰る。しかし暗い稽古場でたたずむ劇団員たちを見て、ここは自分のような行き場のない人たちのいる場所だという気がした。結局、彼は迷った末に、翌日からそこに通い始める。

転形劇場の稽古は、一般の劇団で行なわれているような発声練習はほとんどせず、「肉練」と呼ばれる身体の訓練が中心だった。それも飛んだり跳ねたりではなく、息を吸って吐いてという「気」の訓練のようなものばかりだったという。大杉は入団してまもなくして『 老花夜想 ノクターン 』という作品で初舞台を踏んだ。1974年6月、彼が22歳のときだった。

その後、太田と転形劇場の作品は1977年初演の『小町風伝』を境に、徹底的にセリフを刈り込み、俳優たちの動作も極度にゆったりとしたものへと変わっていく。4年後の『水の駅』はついに一言もセリフが出てこない完全な沈黙劇となった。このころには演出の太田も俳優たちも一日中、ほとんどしゃべらないまま稽古を終えたこともあったという(扇田昭彦『日本の現代演劇』)。

言葉の過剰な舞台が演劇の主流の時代にあって、転形劇場は異彩を放つ。海外公演も多く、国際的にも高い評価を受けた。1985年には劇団専用の新たな稽古場兼劇場が練馬に完成、大杉は制作の仕事も兼務し、公演のたびに多忙をきわめる。しかし小さな劇場とはいえ、維持していくには大変な労力を要した。やがて経済的な行きづまりに加え、時代を乗り切るためには表現方法を変えなければならないとの理由から、転形劇場は1988年に解散する。入団前、3年も劇団にいるのは無理だと言っていた大杉だが、けっきょく解散まで14年間在籍し、その間に演じるということを文字どおり身をもって体得したのだった。

ピンク映画の監督たちとともに一般映画へ進出

大杉は転形劇場に在籍中より映画にも出演するようになる。銀幕デビューは1978年に撮られた高橋伴明監督の『緊縛いけにえ』(公開は1980年)。これはピンク映画と呼ばれる成人映画だった。ピンク映画は予算も少なく、短期間で撮らねばならないためスケジュールはタイトだったが、その分、監督は知恵を絞り、役者として触発されることも多かった。その後もピンク映画に出演を続けるうち注目されるようになり、1984年には、前年公開の『連続暴姦』(滝田洋二郎監督)でピンクリボン賞主演男優賞も受賞している。

やがて劇団の仕事が忙しくなったため、ピンク映画からはいったん引退する。だが、劇団解散後は、映画をはじめ映像作品が仕事の中心となった。このころには、前出の高橋伴明や滝田洋二郎、あるいは周防正行などピンク映画で出会った監督たちが一般映画に進出しており、あらためて一緒に仕事することになる。周防とは高橋伴明組の助監督だったときに知り合った。その周防監督のデビュー作『変態家族 兄貴の嫁さん』(1984年)は、小津安二郎監督の往年の名画へのオマージュを込めた作品で、大杉は小津映画の 笠智衆 りゅうちしゅう を彷彿とさせる老人を演じた。ピンク映画としては異色の作品は話題を呼ぶ。その後、周防の初めての一般映画『ファンシイダンス』(1989年)でも彼は再び老人に扮した。

300本を超える映画に出演した大杉だが、そのなかには井筒和幸の『ガキ帝国』(1981年)、竹中直人の『無能の人』(1991年)、SABUの『弾丸ランナー』(1996年)など新人監督の作品も目立つ。このうちSABU監督はかつて俳優(芸名は田中博樹)として映画で大杉と共演し、意気投合して以来の仲だった。このほか、1999年には田巻源太という新潟の高校生による自主制作映画『黒いカナリア』にも出演している。

廃業を思いとどまらせた北野映画

劇団解散後、90年代に隆盛したVシネマの撮影が月に何本も入るなど、仕事は順調かに見えた。しかし40歳をすぎたこのころ、大杉はいちど俳優をやめようかと考えたことがあったという。あるとき現場でスタッフから「やくざなんだから、やくざらしく演ってよ」と舌打ちされ、カチンと来るとともに落胆する。ついには、妻にも「俺、役者やめるかもしれん。……飽きちゃった」と口にし、いっそ田舎に帰って農業でもやろうかと考えるほど思い悩んだ(『AERA』2001年10月15日号)。

それが俳優業に踏みとどまったのには、北野武監督の『ソナチネ』(1993年)に出演したことが大きい。大杉は北野の前作である『あの夏、いちばん静かな海。』(1991年)を観て、聾唖の若い男女が主人公でセリフも少ないことから、自分がかつてやっていた沈黙劇と似たものを感じ、いつか北野映画に出たいと漠然と思っていた。そこへ、次回作のオーディションの話が舞い込む。

こうして生まれて初めてオーディションにのぞむも、時間を間違えてしまい、会場に着いたときにはすでにスタッフが撤収作業を始めていた。監督とは一瞬目が合っただけ。キャスティング・プロデューサーから「大杉さん、ありがとうございました」とそのまま帰され、これはだめだなとあきらめていたところ、2日後、片桐という役に決まったと伝えられる。

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この連載について

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一故人

近藤正高

ライターの近藤正高さんが、鬼籍に入られた方を取り上げ、その業績、人柄、そして知られざるエピソードなどを綴る連載です。故人の足跡を知る一助として、じっくりお読みいただければ幸いです。

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コメント

u5u 大杉「死ぬ時は、たまるだけたまった疲れが出てバタッと倒れてこと切れそうな予感が、自分でもある」 約1年前 replyretweetfavorite

donkou cakesの連載で、明日14日、お別れの会が開かれる漣さんの足跡を振り返ってみました。 約1年前 replyretweetfavorite