非の打ち所がない美男美女には飽きてくる?

愛ほど厄介なものはないとつくづく思う……しかも、私たち人間は胎児の段階ですでに愛を感じ、その後も死ぬまで、しばしば愛に翻弄されるとなると、私たちは愛とどのように向き合っていけばいいのでしょうか。『デカルトの憂鬱』によると、哲学者・デカルトの勧めは、意外にもシンプルです。それが愛の名にふさわしいものであるかどうか、きちんと検証すること。この作業が自分の愛を真っ当なものにしてくれるのです。

12 デカルトは検証して「愛する」

愛の本性は、私たちをして、愛の向かう対象と自分とが一つの全体であり、自分はこの全体の一部にすぎない、そう思わせるところにある。 ―デカルトからシャニュへの手紙 (一六四七年二月一日)

「カルピスは初恋の味」

 私は小さい頃、母方の祖母にずいぶんと可愛がられました。ですから、彼女との思い出もいろいろとあるわけですが、今でも覚えているのは、私がまだ小学校低学年だった時のこと、一九一九年(大正八年)に日本で初めて売り出された乳酸菌飲料「カルピス」をめぐる思い出です。夏の暑い盛りにカルピスを飲みたがった私に、彼女はこう言って買い与えてくれたのでした―「カルピスは初恋の味」。

 この宣伝文句は、発売翌年に作られたそうです。なんとも甘酸っぱい響きがしますが、それと同じくらい甘酸っぱいカルピスの味とともに、大正生まれの祖母の心を捉えたことでしょう。私も子どもながらに、これはなんだか大人っぽい、カッコいい宣伝だな、と思ったのでした。

 読者の皆さんは、ご自分の初恋がいつだったか、思い出せるでしょうか。私は、はっきりと思い出せます。しかし、もしかしたら自分が記憶しているよりもはるか昔に誰かに恋をしたかもしれない。ただ忘れているだけかもしれない。

 そこでここでは、デカルトとともに愛の起源について考えてみることから始めたいと思います。

人は生まれつき何かを愛するようにできている

 私たちが生まれて初めて愛を感じたのはいつのことか―デカルトはこの問いに、一六四七年二月一日付けでシャニュに宛てた手紙のなかで、哲学者というより科学者として答えています。

「私たちの魂が身体と結びついた最初の瞬間から、魂は喜びを感じ、ついですぐに愛も感じ、そしておそらくはその後に憎しみや悲しみを感じたということは、まず間違いないのです」

 ちょっと面食らってしまう説明です。本人もそのことは分かっていたはず。なぜなら、断定することまではしていないからです。いずれにせよ彼は、ヒトが胎児として母体のなかにいる時のことを考えています。ただ「魂と身体が結びついた瞬間」とは、精子と卵子が受精した瞬間のことではありません。そもそも顕微鏡によって精子の存在がオランダで発見されたのは、一六七七年のこと。デカルトがこの世を去ってから二十七年後のことです。

 ですから彼は、受精はおろか精子の存在すら知らない。ここでは、不死なる「魂」がいずれ朽ちてしまう「身体」という物体のなかに入ることで胎児が母体内に形成される、という、デカルトに固有な人間観が下敷きになっていることを確認するにとどめましょう。彼に「固有な」というのは、「デカルトはまず『疑う』」のところで解説した「心身二元論」のことを思い出してくだされば、その意味するところはお分かりいただけるでしょう。

 さて、魂と身体が母体のなかで合体した時が、私たちがこの世に生を受けた瞬間です。そして、まったくその記憶はないのですが、私たちは母体のなかにいる時から、すでにさまざまな感情を味わっている、というのが彼の考えです。

 最初の感情は、喜びです。なぜなら、魂と身体が一緒になるには身体のコンディションが万全でなければならず、そのような状態の身体は魂に喜びを引き起こすからです。

 ついで私たちが「すぐに」感じたのが愛だとデカルトは述べます。

「〔胎児の〕身体の状態が万全の時は、おそらく〔母体内の〕そのそばに身体の養分として適切ななんらかの物質が一緒にあって、魂はこの新たに接する物質に自分の意志で結びつくことで、それに対して愛を感じたはずです」

 この説明を読めば、どうして魂が悲しみや憎しみをその後に感じたかも分かるはずです。つまり、この養分がなくなれば悲しみが、そして「身体を養うのには適さない」物質がそのそばにあれば憎しみが、それぞれ生ずるからです。

 この引用で述べられていることは、現代の科学・技術をもってしても検証しようがありません。ですからここで確認すべきは、デカルトの説明は正しいかどうか、ではなく、彼はこの引用のなかで何が言いたいのか、ということになります。ポイントは少なくとも二つあります。

 まず一点目。私たちが何かについて愛を感じている時、私たちは自分から率先してそれと一緒になりたいと願っている。いや、より正確には、もうすでに一緒になっている、と考えている。その状態が愛です。 「率先して」というのは、引用における「自分の意志で」というところに相当します。そして、たとえば好きになったあの人と手を結びたい、口づけを交わしたい、できることならずっと一緒にいたい……などと願うだけでなく―なぜなら、それは愛というよりはむしろ「欲望」だから―、実際に一緒なのだと見なすことが「愛」だというのは、この感情について辞書的に解説する『情念論』の第八〇項で説明されているとおりです。

「意志という用語で私が理解しているのは〔……〕、自分は愛の対象ともうすでに結合している、と自分のことを見なす同意のことだ。その結果、ある一つの全体が想像され、そして自分はその一部分にすぎず、自分の愛するものが残りの部分だと考えられている」

 引用のなかで使われている「見なす」とか「想像する」、さらに「考える」という言葉に着目して、結局のところ愛は思い込みだ、などと揶揄いたくもなりますが、それはあながち間違っていないのではないでしょうか。

 ついで二番目に注目したいのは、私たちはヒトとして母体のなかに誕生した時点ですでに愛を感じていた、という説明です。言い換えれば、私たちは生まれつき何かを愛するようにできている、そうなっている、ということです。いっさいのものに愛をまったく感じないようなヒトは存在しない、愛を感じないように努めてみたところでそれは無理だ、ということです。ここは大事なところです。

 このようなデカルトの人間論は、非常に鋭いものがあると感服します。と同時に、鋭いだけにいくつもの問いがすぐに出てきます。そこで、私たちはそもそも何に愛を感じるのか、という問いから始めましょう。恋人だけが愛の対象でしょうか。まさか!

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デカルトの憂鬱

津崎良典

悩みや心配、悲しみ、怒り、憎しみ……そんな「マイナスの感情を確実に乗り越えられる方法」はあるでしょうか? あの「我思う、ゆえに我在り」であまりにも有名な近代哲学の祖・デカルトが、私たちに降りかかるマイナスの状況にいかに対峙すべきか、「...もっと読む

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