哲学と冒険

先立って働くな

行動、思考、遭遇、あらゆる僕自身にまつわる、その日常のこと、毎日接する物事、それがすべて僕の思想であり、それが僕の哲学であり、それは言語よりも前にある。先にある。先にあるものを僕は毎日生きている。息を吸いながら、それらを見ている。食べている。食べながら、何かをつくろうとしているわけではない。それによって何かをつくりたいわけではない。僕はただそうやって生きたいだけだ。僕は毎日、原稿を書き、絵を描き、歌をうたい、人々と出会い、本をつまみ食いし、画集をつまみぐいする。だいたい毎朝8時更新。お休みすることもあり。

2018年4月2日

 疲れたのかずいぶん寝た。朝10時に起きる。編み物の研究のために、原宿GYREのマルタンマルジェラへ。夏物のコットンセーターを物色し、あれこれ考える。『パウル・ツェラン全詩集 第Ⅱ巻』を購入。いのっちの電話を3件ほど。いのっちの電話が僕の中で比重がどんどん大きくなっている。人間を生かすということ以上に重要な生産などあるのだろうか。それ以外に人間がやることなんかあるのだろうか。そんなことを考えている。金にはならん。そんなことをいう人がいるかもしれない。しかし、それは大きな間違いである。でもこれは資本主義ではない。それじゃなにか。僕もまだわからん。わからんけど、そういえば来年のダボス会議?とかなんとかよくわからないが、経済学者たちが集まる世界会議みたいなものに出ないかと誘われたことを思い出したが、そういうことじゃない。ただ人間を生かすだけでいい。それしか目的がない。それをやりながら金を稼ぐ、そういう今の経済のあり方は違う。決定的に間違っている。でも、文句だけ言ってても仕方がないので、僕はただいのっちの電話を実行する。16歳の女子高生から電話がかかってきた。援助交際をしているらしい。僕はただ話を聞いて、まあ、それはいいが、なにかつくってないのか、とだけ聞いた。つくってたので、そっちをもっと真剣にやってくれとお願いした。

 その子とはまた別の子だ、その女の子から僕はパウル・ツェランを教えてもらった。彼女も高校生だ。話をしていて、なんか感じることがあったので、なにかやってないのか「歌とか、絵とか、文とか」と聞いたら、やってないというから、でも、この子は繊細で、その繊細さは理解されない場所ではただ苦しいだけだが、きっと意味ある、意味とかどうでもいいが、それはあなたの運動である。あなたの運動はあなたの運動としてだけ、動きつづけ、力を持っている。すぐそういう若い人の良さは、なにかに変わる。なにかに使われる。しかし、それはただあなたの運動としてだけ、動き回るもので、なにか別のエネルギーに変わるわけではない。そういうことを伝えようとしてみたが、うまくいったかわからなかった。ところが、最後のほうで、その子が「前回、首をつろうとしたのだが、そのときにツェランの詩が頭に浮かんできて、自殺するのを思いとどめた」と言った。「ってことは、君はツェランのその詩をそらで覚えてる?」「はい」「なんて詩?」「『先立って働くな』という詩である」つまり、彼女は詩人だった。「読んで」「はい」彼女は突然、大きな声で詩をよんだ。

 「先立って働くな」 by パウル・ツェラン

  先立って働くな、
  発信するな、
  立て、
  中へ入って。

  どこまでも無によって根拠づけれられ、
  どんな祈りとも無縁で、
  精巧な接合をもち、
  書かれざる文書にしたがい、
  決して追い越されることもなく、

  わたしはおまえを受け入れる、
  あらゆる安息に
  かえて。

 聞きながら、僕の頭はぶっとんでいた。僕は自分が欲していた言葉を、その子が僕に言っているような、しかも、それは僕が数日前、はっきりと自分が知覚していたような、言葉にならない感覚で、それを知っているはずがないのに、それを以前、話し合ったことがあるかのように、つまり、穏やかな談笑のようなていで、話した。歌を聞いているときにもそんなことがある。あれは一体、なんなのだろうか。そのことをいろいろ考えたくなった。

 趣味は考えること。趣味は編み物。編んでいてもそんなことを感じるときがある。旧石器時代からずっと人間がやってきた編み物。だからその指の動きは、延々と運動を続けることで、ペヨーテミーティングならぬ、編み物ミーティング状態、それは瞑想でありながら、同時に激しく運動をしている。指先、爪、そこらじゅうでうごめく血の動きは、血行がよくなった僕の頭をぐるぐると3周ほど回ると、また指先へと戻っていった。そういう運動を繰り返していく中で、僕の指先は、誰かの指先に変わっていくような気になり、少しずつ時間が遡りはじめ、経験していないはずのことが、頭に映像ではなく、自分の体験として、真実味をもって浮かんできた。これは石牟礼道子さんと出会ったときもそうだった。道子さんと話していると、どんどん時間が遡っていった。僕は知らないはずなのに、僕は知っていて、その感覚について僕はどうにか人に伝えたくなった。

 これは子供のときに感じたことだ。子供のときに感じた安心感。祖父が持っていた道具や、祖父とフォルクスワーゲンの関係、そのクラッチの踏み方とか、ハンドリングを見ながら、自分がまったく知らないもののはずなのに、なんというか、僕はその動きがなめらかで、そのなめらかさにたいして、驚くというよりも頷ける感じ、うまく説明はできない。しかし、そういうことは音楽でなら、お安い御用である。音楽でなら、すぐにドラムのリズムのずらし方や、ギターのバッキングの旨み成分で伝えることができる。そのような運動が編み物にもあった。誰かが朗読した詩にもある。僕の歌にもあればいいなと思う。僕の文章にもあればいいなと思う。僕は道子さんに平家物語を朗読した。踊りながら読んだ。道子さんはそれを見て、あなたは以前、わたしに読んだことがありますねえ、と言った。一度もなかった。でも、それはわたしじゃなくて、わたしの前のわたし、しかも、道子さんも道子さんではなく、道子さんの前の道子さんだった。僕は年寄りで、道子さんは童だった。すると、道子さんはとっさに「いや、植物でしたよ」と言った。僕はそれを聞いて、思わず笑った。この空間をどうにかそのまま真空パックにして保存したいと思った。そういうときに歌が生まれ、そういうときに情景が生まれ、そういうことを残そうと人は体を動かしはじめる。

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坂口 恭平
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2015-07-31

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