距離は、一五七六メートル。
射程十分。 間違いない。もしサイレンス・ヘルが狙うとしたら、ここしかない。
問題は、いつ、狙撃するかだ。 七海は使えるだけの資金を投入して、一日で集められるだけの情報を集めた。
実家を出た後、西城に依頼し、豊島公会堂の件で話に上がった通称「鍛冶屋」ことガン・スミスに当たってもらい、サイレンス・ヘルが昨夜自分のライフル銃を引き取りに来たことを確認している。 〇・一度未満のズレが致命的になる一流のスナイパーは、ほんの少しの射撃コンディションの違いも気にする。湿度や温度で、状態がわずかでも変わるのを嫌い、必ず、狙撃の直前に銃を引き取りに来る。
そうだとすれば、狙撃が行われる可能性が最も高いのは、今日だ。 しかも、寺岡澄子が毎日、昼食後に湖畔のベンチに座って湖を眺めるという情報を摑んでいる。昼食後の時間帯というのが、ちょうど今だ。
いつ、どの瞬間に銃声が轟いても、少しもおかしくはない。 けれども、ダムの上、アスファルトの道路になっている部分に、人影はない。
七海は、自分の推測が間違ったかと思った。 殺しにはいろんな方法があって、至近距離からの射殺、爆殺、毒殺……七海は大きく首を横に振る。サイレンス・ヘルのやり方ではない。 彼なら、必ず、自分の射程距離を活かして、狙撃を立案するはず。だとすれば、やはり——
「あっ!」
七海はダムのある箇所を見て、思わず声を上げてしまう。ダムに人影がなかったのではない。 単に、見えなかったのだ。気づかなかったのだ。
男の体は、まるでダムのコンクリートに一体化したかのように生命を感じさせず、それだから、異物感がなく、着ているグレーの服も手伝って、カメレオンのように完全にダムに擬態していた。ただ、不自然に細長い筒が、対岸に向かって伸びていた。
間違いない、サイレンス・ヘルだ。
「やめて! 待って、涼! 撃たないで!」
大声で叫びながらダムに向かって全力で走り寄る、七海の視界が大きく振動した。 走り寄る七海にも、当然、気づいただろう。けれども、サイレンス・ヘルこと日向涼は、それに動じることもなく、微動だにせず、冷静沈着に引き金を引いた。
それは堂々たる射撃だった。 ライフルの銃口からは三発の銃弾が連続して放たれ、小さな火花として日光の中でかすかに見えた。 それを証すかのように、ほんの少し遅れて銃声がこだました。どん、どん、どん、と圧縮した空気を繰り出すような、重厚で腹に響く音だった。
紛うことなき、プロの業だった。彼が世界最強のスナイパーと言われる理由が、はっきりと わかった。おそらく、かなりの高い精度で全弾、命中しただろう。
対岸で胸に銃弾を受ける一〇二歳の老女の姿が、ありありと想像できた。銃弾を受けた彼女は静かに、崩れ落ちるようにして、ベンチに伏したのかもしれない。外れるイメージが少しも湧かなかった。
すべて、わかっていた。情報が揃っていた。ここまで来ていたのだ。 それなのに、あとほんの少しのところで、間に合わなかった——
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