なぜテレビでは本音が言えないのか

コラムニストの小田嶋隆さんが、スタジオで自由な物言いができなくなっているテレビの現状を読み解きます。オネエの芸能人の活躍が目立つ理由は? 有吉弘行やマツコ・デラックスの毒舌の役割とは? ぜひお読みください。

細かすぎて伝わらないテレビ画面の約束事

2002年に『読売ウイークリー』という雑誌で、テレビ批評のコラムを連載を開始して以来の数年間、私は、かなりヘビーなテレビ視聴者だった。PCの横に置いてあるテレビは、見ていなくても常にONにしていた。音は消音。でも、内容は大体わかった。そういう能力が身につくのだ。恐ろしいことに。

それが、2008年に雑誌が休刊すると、私のテレビ視聴時間は、劇的に減った。震災の後、ツイッターを利用するようになってからは、さらに極端に減っていった。最近では、テレビをつけない日の方が多いかもしれない。

と、テレビの中の人たちの「間」というのか「呼吸」に、シンクロできなくなる。内容をどうこう言う以前に、画面のプロトコルに追随できなくなるのだ。だからたとえば、CM入りのタイミングの異様さであるとか、ワイプ(画面の中の小窓)や字幕の使用頻度といった、演出の部分のいちいちに、神経をかき乱される。で、30分で撤退する。

おそらく、テレビは、継続的に視聴している人間だけが批評眼を保持することのできるメディアに変貌しつつある。別の言い方をするなら、テレビ画面の中の約束事の細かさが、通常の世界の感覚とかけ離れた次元に到達してしまっているということだ。その、スタジオのリズムに同調できないという意味で、私は既に老人になっているのかもしれない。

言ってみれば、ナイター中継の解説で、バッターが手袋をすることに苦言を呈してばかりで、ほかの話をまるでしなくなっていたカネやんみたいな存在になりつつあるということだ。うん。「ナイター」も「カネやん」も死語だ。若い人たちには解説抜きではわからない。私は死語の側の人間になっている。

20年ぶりにF1を生観戦した知り合いが、エンジン音が違い過ぎることにシラケていたのを思い出す。現場と離れた人間は、コンテンツの本質とは別のところで、最先端に追随できなくなる。そういえば私が洋楽のヒットチャートから撤退したのも、ある日ダンサブルなビートにノれなくなっていたからだった。

マツコの毒はいかほどのものか?

さて、久しぶりに液晶画面を見ると、オネエの皆さんが目立つ。実感ベースでは、10年前と比べて、全放送映像に含まれるオネエ含有率は、十倍に増えている。

理由はわかっている。以前、『読売ウイークリー』のコラムの中で書いたこともある。要するに、テレビが「女装の男性」や「日本語の達者な外人さん」や「空気が読めないことがキャラ設定になっている特殊芸人」といった感じの「異形」の人間をキャスティングするのは、スタジオが自由にモノを言えない空間になっていることに対する反作用なのだ。

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小田嶋隆

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