今の職場に満足していますか? 学校選び、間違ったと思ってません? 別の人と結婚した方が良かったんじゃないですか? イラッとさせる質問を並べ立ててみました。まったくもって余計なお世話ですよね。
私たちは、毎日、多くの意思決定をしています。たとえばぼくはいまスタバにいますが、まずカフェに入るかどうか決めて、スタバにするのかルノアールにするのか決めて、スタバに入ったら何を注文するのか決めなくてはなりません。1階と2階のどちらの席にするのかも決めなくてはなりません。
何かを選ぶということは、何かを選ばなかったということです。ぼくはいまルノアールにはいないのです。カフェにはあまりこだわりがないので、ぼくとしてはスタバであろうとルノアールであろうとどちらでも構いません。
しかしその人の人生において大事なことに関して選ぶとなると「どちらでも構いません」とは言っておられません。仕事や学校や結婚相手を選ぶときは、カフェを選ぶときよりはるかに真剣に考えて選んでいるはずです。
困るのは、選んだ後に、「ほんとにこっちで良かったのかな?」という疑念が心の中でむくむくとわき上がるときです。そんな時、人間はどうするのでしょうか? そのヒントは、前回のエッセイでちょっとだけ触れました。「接近─接近型コンフリクト」について説明する時に、ワインビストロに行くか、それとも割烹に行くか悩む、という話をしました。ビストロに行った人は、レビューサイトでその店の高評価を読んで納得する、また行かなかった割烹についてはコスパが良くないなどネガティブ評価に関する情報を得たがるという話を言いました。
割烹に行かなくて良かったというロジックを頭の中につくるのは、イソップが言う「酸っぱいブドウ」です。ある狐が自分の手の届かない高いところにあるブドウを見て、このように考えるのです。「どうせあのブドウは酸っぱいから食べられなくても構わない」と。つまり選ばなかったものが良くないものだから、選ばなくて良かったという合理化を行うのです。
一方、ビストロの高評価をわざわざ見に行って得心することは、「甘いレモン」と言います。自分が選んだものは、選ばなかったものよりも良いものだから、選んで良かったという合理化を行うのです。
なぜこのような合理化をするのでしょうか? それは人間って一貫性がないと気持ちが悪いと感じ、矛盾があると解消したくなる動物だからです。つまり何かを選んだ(選ばなかった)という事実と、自分の意思決定に対する不安の両者が矛盾しているのです。その場合、不安を解消する論理を自分の中に創ろうとするのです。
このプロセスのことを、心理学では認知的不協和の解消と呼びます。レオン・フェスティンガーという昔の心理学者が、自動車を購入した人に対する実験で、認知的不協和を人々は解消したがることを明らかにしています。
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