私たちはみな、大人になる前は子どもだった。

一度も勉強したことがない人に、もっとしっかり勉強すればよかったという後悔や反省の生じる余地はありません。しかし、もしそのような後悔や反省が少しでも湧いてきたら、それはチャンスです。この苦い思いをバネにすれば、やり直そうと思えるからです……『デカルトの憂鬱』の著者・津崎良典先生が、私たちにとって「学ぶ」とは、そして「哲学」とは何をすることか、を教えてくれます。

11 デカルトは魂を耕すために「学ぶ」

良い精神を持っているだけでは不十分だ。大切なのはそれを良く用いることである。 ―『方法序説』第一部

ガリ勉したけれど無駄だった!?

 十代のデカルトは、ひと昔前の言い方をすれば、ガリ勉でした。自伝というスタイルで書かれた『方法序説』第一部の記述を信じる限り、学校の勉強ばかりを一生懸命する青年期を過ごしたようです。しかもその学校というのが「ヨーロッパで最も有名で」「地上のどこかに学識ある人々がいるとすれば、そこにこそいるはずだと思われた」ところ。ラ・フレーシュにあった学院でガリガリと勉強したデカルトは、好意的に捉えれば努力家や勉強家ということになるのでしょうが、要するに堅物の優等生、恋の一つも知らない無色透明で無味乾燥な青春を過ごしたに違いありません。

 しかし、往々にして生真面目な生徒ほど、何かのきっかけで極端な行動に打って出るものです。豹変するのです。

「私は子どもの頃から文字による学問で養われてきた。そして、この学問によれば人生に役立つすべてのことについて明晰で確実な知識を手に入れられると言い聞かされてきたので、これを習得しようと並外れた願望を抱いていた。けれども、それを終了すれば学者として見なされるのが習わしとなっている学業の全課程を済ませるや、私はまったく意見を変えてしまった。多くの疑いと誤りに悩まされている自分に気づき、勉学に励みながらもいっそう自分の無知を痛感させられたという以外、何も得ることはなかったと思われたからだ」

 強調のための傍点をたくさん付けたので読みにくくなってしまったかもしれません。しかし、そこまでして注目したいのは、優等生デカルトが意見を正反対に変えたことです。「文字による学問」を勉強すれば「人生に役立つ」と言われてきたから頑張って勉強したけれど、結局は何も学ばなかったに等しい……デカルトはそう回顧しています。いや、単に思い返すだけでなく、ちょっと怒っているようにも感じられます。あれは無駄だった、と。

 しかし、本当にそうでしょうか。ここでは、学校での勉強は本当に無駄かどうか、この問題を考えてみたいと思います。ただしその前に、デカルトが受けた授業について種々の資料から分かることを簡単に振り返っておきましょう。

「知識」を獲得する手段は少なくとも四つある

 デカルトは一六四七年、『哲学の原理』の仏訳者に手紙を書いています。これを読むことから始めましょう。哲学者はそのなかで「私たちは知恵のどの段階にまで到達しているか」と問うています。

「知恵の第一段階は、深く考えなくても入手できるほどにそれ自体で判明な概念だけで成り立っています。ついで第二段階には、感覚を通じて〔私たちに知らされる〕すべての経験が含まれています。第三段階は、他人と会話するなかで私たちに教えられるものです。そして第四段階として読書がこの会話に付け加えられます。とはいえどのような本でもよいわけではなく、とくに私たちに良質な手ほどきを与えてくれる人々によって書かれた本です。なぜなら、そのような本を読むことは著者と私たちが行う一種の会話だからです。そして、私たちが普通、手にしている知恵のすべては、この四つの手段だけで入手されるものと私には思われます」

 そもそも「知恵」とはなんでしょうか。ここでは「知識」くらいに理解しておいてください。デカルトは、この知識を獲得する手段には少なくとも四つあると言いたいのです。

 しかし本当は、これらの四つの「手段」の先に「知恵の第五段階」として、あらゆる事柄を説明するための「第一の原因と真の原理」を探し求める道が開かれており、哲学者という生き物はそこを突き進むとされています。世界とは何か、いつどのようにできたのか、何からできているのか、何のためにあるのか、といった根源的な問いに取り組む道です。とはいえ、私たちはそう簡単に哲学者になれるわけではありませんから、当面はこれら四つの手段に習熟し、また、それで満足しなければなりません。

 それでは最初の手段から説明していきましょう。たとえば時間のことを考えてみてください。それは、ことさら説明せずともすでに多くの人によって理解されているものです。なるほど、時間とは何かという問いは、哲学上の第一級の難問ですが、人はそう問われるまでは一応、時間について自分なりに理解している。そしてそれで構わない。私たちはそういったものを、つまり哲学者たちのあいだで「概念」と呼ばれているものを、生まれてこのかたいくつか理解しています。数や図形の知識などもそうです。まずこれが「知恵」の第一段階です。

 ついで第二手段です。これは分かりやすいと思います。大人になって初めて飲んだワインの苦味、あるいは子どもの時に初めて食べたチョコレートの甘味―私たちは五感を通じてずいぶんと多くのものについて学んでいます。

 続く第三段階も難しくないはず。ちょっと酒場に通うようになると、どこそこのワインは美味しい、などと薀蓄を披露する客と隣席になってしまうことがあります。静かに酒を飲みたいのだけれど、と思いつつ、ずいぶんとお詳しいんですね、などとお世辞を言ったりしている時、私は「会話」を通じていろいろな知識を手に入れています。

 それでも知識豊富な客に負けまいとワインについて本格的に勉強しようと思ったらどうするか。たとえば、本屋でワインに関する解説書を買ってきたり、ワインスクールに通って教材を読んだりして勉強する。つまり、先立つ章ですでにその効用を分析した「読書」に取り組むわけですが、これはデカルトが言うように、私たちの日常生活においては最終兵器です。極端なことを言えば、これ以上の学び方は通常はもうない。

 そうすると、「知恵」の第四段階に相当する「読書」を中心とした座学、しかも学校の授業は、人が何かについて学びたいと思ったら避けて通れないものであることが分かります。

 デカルトは、この座学タイプの勉強をけっして否定的に捉えていません。それどころか、もしそれが本当にうまくプログラムされたものなら、彼のような天才にとってはいずれ「真の哲学」つまり「知恵の第五段階」に到達するために、そして私たち凡人にとってはそれ以外の目的を実現するために、抜群の効果を発揮する、と肯定的に受け止められているのです。それは、どのような目的でしょうか。次にこの問いを考えてみましょう。

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デカルトの憂鬱

津崎良典

悩みや心配、悲しみ、怒り、憎しみ……そんな「マイナスの感情を確実に乗り越えられる方法」はあるでしょうか? あの「我思う、ゆえに我在り」であまりにも有名な近代哲学の祖・デカルトが、私たちに降りかかるマイナスの状況にいかに対峙すべきか、「...もっと読む

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a_tocci このような「褒め言葉」という餌で生徒を釣って勉強させることに意味はあるのか。https://t.co/k1kQPhvRnZ 2年以上前 replyretweetfavorite

a_tocci さらに極端なことを言えば、学校教育の成果は本当のところ、他人の評価―たとえば、一流大学で学んでいるのですね、凄いですね、とか、優良企業にお勤めなのですね、ご立派ですね、といった褒め言葉―によっては測れないのではないか。 https://t.co/k1kQPhvRnZ 2年以上前 replyretweetfavorite

a_tocci 一度も勉強したことがない人に、もっとしっかり勉強すればよかったという後悔や反省の生じる余地はありません。しかし、もしそのような後悔や反省が少しでも湧いてきたら、それはチャンスです。 https://t.co/k1kQPhvRnZ 2年以上前 replyretweetfavorite

a_tocci この経験がないと、後から振り返ってみて自分がいかにものを知らないか、そのことに気づけない。そしてそのような気づきがなければ、自分から率先して学び直そうと思うことすらない。 https://t.co/k1kQPhvRnZ 2年以上前 replyretweetfavorite