澄み渡っていた春の空は、もこもこしたグレーの雲に覆われてしまった。雲はときおり陰湿な雨を街にこぼし、ぼくたちはそのしたで濡れそぼっているしかない。
バイトの休憩中、ぼくはふいに団地の屋上に行ってみたくなって、いまにもワイヤーの切れそうなエレベーターに乗って最上階にあがった。長い廊下はひんやりとして無機的で、人々のにおいや気配だけがうすく充満している。なんとなく、学生時代に見に行った精肉工場の雰囲気を連想させた。
コの字型の廊下を奥へ進んでいくと、突き当たりの手前に鉄製の、いかにも重たそうな扉があった。なるべく静かに開けたかったけれど、それでもかなりの音がしてしまい、ぼくはだれかに気付かれてしまわないかとひやひやした。けれど、長い廊下にはだれもいない。不気味なほどしずかだ。
扉の先には薄暗い階段があり、昇りきったところには屋上へと繋がる安っぽくて軽い扉があった。ぼくはなにも考えず、あたりまえのようにふたつめの扉を開き、広い屋上へと踏み出していった。
室外機がぐおんぐおん音を立てる広い屋上は、想定していた以上にろくな場所ではなかった。とつぜんよくわからないおおきな溝があったりして、うっかりここへ落ちてしぬというだけの人生も、どこかにあるのかもしれないと想像してしまう。景色もぱっとせず、しかし地上にいるときよりは、海のにおいが濃く感じられる。
本当は大の字になって寝そべりたかったけれど、朝まで降っていた雨のせいでそこらじゅう濡れていて、かわりに銀色の太いパイプのうえに腰掛けた。そして、パイプがひんまがらないかヒヤヒヤしながら横たわってみたけれど、腰まわりの筋肉がどうしても緊張して、なかなかリラックスすることができない。
ぼくはいま、ぎこちなく曇天と向き合っている。
曇天はまったく、どこまでも曇天だった。よく見ると、わずかに太陽の光が漏れている箇所があったりして、あの向こうはどんなにきれいかって、思わされるのがむなしい。まるで地球ごと布で覆われて、なにかとびきりの光景や出来事から、まるっきり締め出されているみたいな。
ここはじめじめし、雨がふり、きなくさい右寄りのニュースが駆け巡るだけの世界。こんなところで一生懸命いきるなんて、まったくばかなやつのすることだ。
あの雲が空に現れてから、ぼくはこころに膜が張ったみたいになにも感じなくなった。それをいいことに、この一ヶ月フリーマーケットだけでなく、ネットオークションやコレクター向けのショップを駆使して、がんがんおもちゃを手放していっている。バギーを手放したときの感傷なんてもうどこにもない。これって、とてもいい傾向だと思う。
ぼくは胃袋からあらいざらいものを吐き出すみたいに、とにかく大量のおもちゃを手放しつづける。それは、やっぱりものを吐いたときとおなじくらいのくるしさと、爽快さをもたらす。部屋といっしょに、ぼく自身が空っぽになっていく。中身がなんにもなくなっていくような。
今年の梅雨は長いらしい。
久々にめぐるから連絡がきたのは、そんな梅雨の、ある土曜の朝だった。
「ゆうちゃん、イエーイ。 来週、友だちの主催するフリマが西荻であるんだけど、あんたもでない?」
ベッドから身体を起こすと、すりガラスの向こうから、めずらしく陽の光が差していた。あきらかに春のものとはちがう光だった。
「フリマ? どうして急に」
しらじらしい返信を打ちながら窓を開けると、陽の光がより太い光線となって部屋を照らしだした。夏だ。夏がもうじきやってくるのだ。
「いや、さっき友だちに誘われたんだけどさ。ひとりだとさみしいから、あんたいたらいいなって思っただけ」
さみしい。さみしいか。さみしいってなんだっけ。
「途中からでよかったら、もしかしたら参加できるかもしれない」
ぼくは人に会うとき、いつもこういう言い方をしてしまう。行っても行かなくても怒られないような、ずるい言い方だ。思えば子どものときからそうだった。絶対の約束ごとって、守れなかったら嫌われる気がしてこわいのだ。あるいは、嫌われるかどうか試すために、あえてやぶってみたりもする。
「おっけ。じゃあ会えそうだったらたらテキトーに会お。渡したいお土産もあるし。超いけてる犬の、なんだろうこれ、なんかやつ」
「なにそれ」
「わかんない。犬のなんかやつ」
ぼくはあれこれ想像してみた。けれど、どんなものなのかまったく想像がつかない。
「気になるっしょ。もしよかったら今日渡してもいいよ。晴れてっし、ついでに走ろーよ、チャリで」
ぼくはすこし携帯から離れ、五分ほど置いてから返事をした。
「昼過ぎからなら、もしかしたら平気かもしれない」
めぐるとはじめて出会ったのは、二十歳のころだから、もう6年前だ。当時ぼくは絵の勉強を、めぐるは写真の勉強をしていて、他大学だったけれど、なんとなく共通の知り合いを通して友人になった。
あのころのめぐるは、いかにもお嬢様って感じの格好に身を包み、お嬢様みたいにおっとり喋った。服装もきれいなワンピースを着て、だけどなにを考えているかはよくわからない人だった。
ぼくはぼくで、人にからかわれるままに「おかまです」なんて言って、やけに元気なふりをしたりしていた。いまにして思えば不思議だけれど、つねに人の顔色をうかがって、そのときどきで自分をつくろうとするぼくにとって、それは突飛でもなんでもない生き方だった。
しかし、あるときを境に、めぐるは変わった。お嬢さまふうの服を脱ぎすてて、ロングだった黒髪もちょんちょこりんにして、身軽な言葉でよくしゃべり、よく笑うようになった。そしてぼくも同時期に、「おかま」なんて言うのをやめた。はっきりと語り合ったことはないけれど、頭のかたいぼくは、そういう足並みが、ぼくたちをよりつよく結びつけるようになった気がしている。
だけど、気がつけばぼくは消えたくなっていて、めぐるはみるみる健やかに、あるべき姿に変わっていく。なんでだろう。いったいどこに分岐があったっていうんだろう。
ひととおり下痢をしおえた午後の三時きっかりに、ぼくは自転車にまたがって東京タワーに向かった。新宿からだいたい一時間、起伏に富んだ山手通りをひたすら突き進んで、代官山で路地にもぐり、明治通りを直進する。自転車に乗っているあいだ、ぼくは無色透明の風になりきる。気取ったタイル敷きの道も、ごみごみした高架下の路地裏も、風はそのまんまの姿で、等しく吹いていけるから。
いつまでも工事の終わらない一ノ橋公園を横切り、広い通りをまっすぐ行くと、待ち合わせ場所の芝公園が現れる。ぼくはいつも通り、入り口に自転車を倒して、広い芝生のなかに入っていった。
「あれーっ、もうきたんだ。あんた、今日はおなか平気なの」
めぐるはごろりと芝生のまんなかに寝そべって、手作りのサンドイッチを食べながら、伊集院光のラジオを聴いていた。相変わらずポケモンのシャツなんか着て、短い髪もちょんちょこりんだ。
「べつに、平気だよ。それで、犬のなんかやつってなに」
ぼくが食い気味に言うと、めぐるはきついオレンジ色のナップザックから、シワシワになったビニール袋を取り出した。
「はいこれ」
きつく縛られた結び目をほどくと、なかには溶けかかった極彩色のキャンディと、溶けきったキャラメルが一粒ずつ。そしてテカテカした素材でできた、ものすごく縫製の雑な、強いていえば犬に見えるという程度の、得体のしれないマスコットが入っていた。
「こいつ、犬ですらないんじゃないの」
ぼくが吹きだすと、めぐるはうれしそうに笑って、「でしょ〜〜!最高〜〜フゥ〜〜!」と、おおきなこえで叫んで転がっていった。うしろでボールを追いかけていたチワワと、その飼い主がおどろいた顔でめぐるを見ている。
「ちなみにそれ、あたしとおそろいだから!」
短パンのベルト穴には、たしかにおなじマスコットがぶらさがっていた。
「へえ、どこのお土産?」
「ノルウェー。恋をしにね、一ヶ月ぐらい行ってたんだ」
めぐるが恋。なんだか想像がつかなくて、変にドキッとしてしまった。
「どんなひと?」
「筋肉のうえにしっかり脂肪がのっててさあ。わかる? 高いお寿司みたいなの。めちゃエッチなの。去年こっちに観光で来てて出会ったんだけどさ」
ぼくは、恋をしにいった国の街角でこのマスコットに出会い、ぼくに押し付けてやろうとたくらんだめぐるの悪い顔を想像して、また吹きだした。
「そっか。ありがとう」
ぼくはこころから言った。
ありがとう。本当にありがとう。
でもね、ぼくもうすぐ、透明になって消えるんだよ。
しばらく芝生で休憩をしたあと、ぼくたちはそれぞれの自転車にまたがって埠頭を目指した。
ごついロードバイクを、颯爽と乗りこなすめぐるはかっこいい。スピードを出したときはツバメみたいに見えるし、のろのろ走っているときはモズみたいに見える。ちいさくて、ちょっとした風にもおびやかされて、いっそ滑稽なくらいなんだけど、でも瞳はまっすぐに目標を見据えている。
一方ぼくの自転車はボロくて、放っておいてもだれも盗んでくれないような代物で、フレームにはとくに気にいっているわけでもないあひるのペックルのシールが貼ってある。ぼくはそのことが、いつもちょっとだけはずかしい。おまけに、しゃかりきに漕げば漕ぐほど、なんだかモグラみたいな動きになってしまう。
ちいさな歩行者用のトンネルをくぐり、海が見えてくると、めぐるはやった——と叫んで、シャツの裾をはためかせながら、勢い良く坂道をのぼっていった。ぼくはボロ自転車のペダルを必死に漕いで、モグラになって、その背中についていく。どうしよう、くるしいのに、顔が笑っちゃう。
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