出会いがしらの「Y字路」
平野啓一郎(以下、平野) その後、横尾さんは非常に印象的な「滝」や「Y字路」など、いろいろな主題の作品を描かれています。それらの主題は、どのように選び取られているのですか?
横尾忠則(以下、横尾) 選ぶというよりね、出会いがしら。「バン」と出会って、「あっ」と思った、それですよ。出会いがしらの恋というのもあるでしょ? 相手の情報はまったくなくて、出会ったときに「あ、この人だ」という。そういうのが、「Y字路」だったんですよ。
誰もが知っていて、特別なものではない。けれども見えてない。そういうものを具体化するのが、僕は美術だと思うんですよ。だからY字路なんてどこにでもあります。特に日本は農道が多いから、道がまっすぐ行って二つに分かれているところはいくらでもありますよね。
ただ、それを描こうと気づいたのは、その場所へ立ったときではないんです。以前に模型屋があったところに、子どもの頃のノスタルジーで「模型屋さん、あるかな」と見に行ったらなかった。でも「記念写真を撮りましょう」と言うんで1枚撮って、明くる日にそれを現像してみたら「不思議な場所だな」と思ったんですよ。真ん中に家があって、それを挟んで左右に道が走っている。
こんな風景が絵になるかどうかと考えたときに、風景画というのは、ルネサンス絵画でも消失点が一点で描かれるのですが、Y字路の絵には消失点が二点あるわけです。「これは面白い」というので、それをテーマにした。でもその前に、世界で誰かが描いていればやめようと思って、ありとあらゆる風景画を調べた。そうしたら、Y字路をY字路として認識して描いた人は一人もいないということがわかった。
ゴッホの絵のなかで教会を描いた作品、あれがY字路になっているんですけど、Y字路を認識して描いてないんですよ。だから誰もやっていないので、Y字路を僕のテーマにして描き始めたんですよね。
平野 画面の中央に何かがあって、みんな「それが主題だ」と認識するのが普通の絵画のはずなのに、そうではなく、奥に続いていく道自体が主題になるという意味でも、非常にラディカルな作品です。
しかも、どこかキャッチーというか、みんな不思議な親しみを持つ。横尾さんがそれを探り当てられたことが、ものすごく大きな出来事だったと思います。
前半のほうでは、デザイナーであり続けることに対して否定的な感情を持たれていたというお話をされていましたが、ピカソに出会って画家宣言をされて、いまは自分の仕事に対して肯定的な意味や、積極的な評価をお持ちですか?
横尾 そうですね。僕は画家に転向しようとしたときに、それまでのデザインの経験を全部捨てたつもりだったんですね。まあ、生活があるので絵だけでは食っていけず、デザインをバイト的にはやっていましたけれども、意識としてはデザイナーではなく、画家であるとはっきり持ったわけです。デザインは生活だけれど、画家は人生だという認識に変わったんです。
ところが、過去の経験を自分のなかから捨てると言っても捨て切れないものです。これをある意味で利用するというと変だけれども、絵のなかにその経験を取り込めないかなという気持ちが、ここ数年の間に起こってきたんですよね。それから、絵のなかにデザイン的感覚というものを積極的に取り入れるようになってきた。
そうしたら世界的傾向と言ってもいいんですけれども、最近の新しい人たちには、元はデザイナーをやっていてアーティストとして活動を始めて、最先端をリードしているというのが何人も出てきている。僕がグラフィックを絵のなかに持ち込みたいと思い始めたのとタイミングがシンクロニシティしてきた。そういう不思議な現象をいま感じています。僕の個人的現実と社会的現実がこういう形で共鳴するのは一つ面白いなと、そういう感じですね。
未完成という自由
平野 最近の作品では、「反復」について伺いたいんです。「Y字路」もかなり反復を重ねて、いろいろなスタイルで描かれています。近年は、昔のテーマをあらためて描き直すということに精力的に取り組まれていますが、それはどういったお考えから始められたのでしょうか?
横尾 今日は昨日の反復、明日は今日の反復という連続性のなかで生きている。それを作品にすればいいというだけの簡単なことです。さらに、僕の作品は全部未完で終わっているんですよ。完成へ持っていこうとすると、その次の作品が描けないんじゃないかという恐怖感があるんです。
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