最も「高邁」な人たちは、最も「謙虚」な人たちである

「高邁」という日本語をご存じでしょうか。ふだんの生活ではあまり聞いたことがないですよね。デカルトは、「高邁な心の持ち主」になることが、日々の生活で目指されるべきことだと言います。では、「高邁」とは何か? 『デカルトの憂鬱』の津崎良典先生が、誰もが実感したことのある身近な例から、わかりやすく教えてくれます。

10 デカルトはたっぷりと「自分の能力を使いきる」

高邁な人々は、他人のために良いことをし、そのためには自分の利害を軽視すること以外に偉大なことは何もないと考えるから、いつも誰に対しても見事なまでに礼儀正しく、愛想よく、そして親切である。 ―『情念論』第三部第一五六項

デカルトが日々の生活で目指した「高邁」とは?

 私は大学四年生になっても、同期の仲間とは異なり、就職活動をいっさいしませんでした。その代わり、院試対策をして毎日を過ごしていました。大学院に進学して、もう少し勉強を続けたいと思ったからです。そこで第一志望に定めたのが、大阪大学大学院文学研究科でした。

 ここを志望したのは、その当時、学費の比較的安い国立大学のなかでもフランス哲学を勉強するのに最適な研究環境が整っていたからです。フランス哲学を専門とする教官が複数名おられ―これは今も昔も珍しいことです―、先輩にあたる院生や修了生はみな眩しいくらいの活躍をされていた。東京は武蔵野の雑木林に囲まれた小さな私立大学に通っていた私は、勇んで箱根の関所を超え、関西へと住まいを移したのでした。

 デカルトについて研究したいと考えていた私の指導教官になってくださったのは、今は亡き山形賴洋先生。現象学という、二千五百年の歴史がある西洋哲学のなかでも新しい分野の専門家で、とりわけミシェル・アンリというフランスの現象学者に関する研究で世界的に知られていました。

 その先生との会話で今でも忘れられないものがあります―「デカルトは『情念論』のなかで高邁について論じているわけだけど、この感情が彼の定義するように心のなかに本当に湧いてきたら、いったいどんな感じがするんでしょうねぇ……」。

 今から二十年近くも前の会話ですから、先生の研究室での雑談だったか、懇親会での歓談だったか、それは定かではありません。しかし、鶯色のブラインドの降ろされた薄暗い部屋で伺ったように思いますから、研究室だったのでしょう。

 デカルト晩年の『情念論』という書物はさまざまな読み方が可能ですが、一つには、道徳や倫理に関する彼の考えが示された書物としてアプローチすることが挙げられます。そしてその際にキーワードとなるのが、「高邁」という普段はあまり聞かない日本語なのです。

 先ほども述べましたが、これは情念というか感情の一種です。そしてデカルトは、高邁な心の持ち主になることが、日々の生活で目指されるべきことだ、それこそが道徳や倫理の課題なのだ、と訴えたのでした。

 ここでは、この「高邁」という心のあり方について考えてみたいのですが、そしてそのためには、デカルト本人による定義を確認することから始めたほうがよいのでしょうが、まずは寄り道をしたいと思います。急がば回れ。

「伊達公子は実に気前のよい戦い方をした」!?

「高邁」という日本語に相当するフランス語は「générosité」です。「ジェネロジテ」と発音します。ちなみにその形容詞は「généreux」で、「ジェネルー」と発音します。

 実を言うと、これらのフランス語はニュアンスを正確に摑むのがなかなか難しい。授業で学生たちに説明する時にいつも立ち止まってしまいます。もちろんフランス語の辞引を参考に、「généreux」には「気前がよい、出し惜しみしない」「心の広い、寛容な、高潔な」「豊かな、たっぷりとある」といった意味のあることをまずは伝えます。

 たとえば、山形先生がそうだったように、あるいは学生時分の私がお世話になった他の先生たちがそうだったように、懇親会などで会食費を多めに出してくださる。時にはご馳走してくださる。そうすると、この先生たちは「気前がよい」。フランス語で表現するなら、「ジェネルー」な先生たちだ、ということになる。

 しかしデカルトは、太っ腹に振る舞え、財布の紐を緩めよ、と訴えていたわけではありません。

 となると、この「気前がよい、出し惜しみしない」という心のあり方をどう理解するか、これが問題になります。しかも学生たちにどう説明したらよいか。ずっと悩んでいた時、かつてある私立大学でフランス語教育を一緒に担当した堀茂樹さんが、『ふらんす』(白水社)という月刊誌(二〇一〇年二月号)にこの「générosité」と「généreux」についてとても面白いことを書いておられるのを発見したのです。  それによると、日本を代表するテニスプレイヤーである伊達公子さんの活躍ぶりを伝えるフランスのある新聞に、「généreux」という形容詞が使われていたそうです―「彼女はとても「ジェネルー」な戦い方をした」、と。

 堀さんはこの形容詞をどう訳すべきか悩みます。

「『日本人選手の伊達公子は実に気前のよい戦い方をした』ではまるで、伊達選手が凡ミスを繰り返し、試合の相手に本来やらなくてもよいポイントをやっていたかのようだ。かといって、『伊達公子はとても高潔にプレイした』とか、『伊達公子の戦い方はたいへん寛大であった』では文脈から外れてしまう。別に伊達選手のフェアプレイを称賛している記事ではないのだから」

 堀さんは、フランス語教師として一流なだけでなく、読書人のあいだではフランス語翻訳の名手としても知られています。それほどの能力の持ち主でも悩んでしまう。しかし、そうであるからこそ、ある気づきに到達します。

「しかし、伊達公子選手をめぐるフレーズに関しては、後日意外な場所で、私はハタと膝を打つことになった。その日は偶々、東京・東銀座の歌舞伎座へ芝居を観に行っていた。歌舞伎では、舞台に人気役者が登場すると、大向こうから『成駒屋!』『音羽屋!』、あるいは『待ってました!』などと、張りのある声が掛かる。〔……〕その時、観客一同お目当ての中村歌右衛門(六代目)が舞台に姿を現した。と、すかさず、後方の席からふたたび声が掛かった。『成駒屋、たっぷり!』この瞬間、自分でも思いがけず、私は内心で『これだ!』と叫んでいた」

 堀さんのこのくだりを読んだ私も内心で「これだ! これは授業に使える!」と叫んだのでした。なぜでしょうか。

この続きは有料会員登録をすると
読むことができます。
cakes会員の方はここからログイン

1週間無料のお試し購読する

cakesは定額読み放題のコンテンツ配信サイトです。簡単なお手続きで、サイト内のすべての記事を読むことができます。cakesには他にも以下のような記事があります。

人気の連載

おすすめ記事

この連載について

初回を読む
デカルトの憂鬱

津崎良典

悩みや心配、悲しみ、怒り、憎しみ……そんな「マイナスの感情を確実に乗り越えられる方法」はあるでしょうか? あの「我思う、ゆえに我在り」であまりにも有名な近代哲学の祖・デカルトが、私たちに降りかかるマイナスの状況にいかに対峙すべきか、「...もっと読む

この連載の人気記事

関連記事

関連キーワード

コメント

guriswest オリンピックを見るとどうして感動するのか。と、翻訳の妙。気前がいいと全力投球が同じ言葉って。すごいなぁ。 2年以上前 replyretweetfavorite