ごんぎつねは二度死ぬ—国語教科書が悲しい理由

不道徳なお母さんライターが、日本の「道徳」のタブーに踏み込み、軽やかに、完膚なきまでに解体! 歴史をさかのぼり、日本人の「道徳観」がどのようにつくられていったか、その過程をさぐります。今回は、「ごんぎつね」が泣ける名作となった「からくり」に話を戻して、その奥にある教育界の思惑に焦点をあてます。さて、ご愛読いただきました本連載も今回が最終回。この夏、書籍化の予定です。どうぞお楽しみに!

音読がつらい国語教科書

海外で暮らしながら日本語の補習校に通う子供たちが、国語の教科書の音読を嫌がるという話を聞いた。理由のひとつに挙げられたのが、「日本の国語の教科書は悲しい話が多い」。「スーホの白い馬」に「ちいちゃんのかげおくり」に「ごんぎつね」、確かに思い返せばいくつも作品名を挙げられる。日本生まれ日本育ちで小学校に通う長女も、「一つの花」が悲しいからいやだとこぼしていたことがあった。「子供の音読の宿題で悲しい話を毎日聞かされるのがつらい」という親の愚痴もよく聞く。海外の教科書事情は知らないが、言語学習が悲しい話ではかどるという話は寡聞にして聞いたことがない。TOEICの教材がビジネス会話でなく動物や幼児が死ぬ話ばかりだったら、悲しくて英語の勉強どころではなくなってしまいそうだ。母語のリーディングスキルを鍛えるという面では、むしろマイナスなのでは?

悲しい話が多い理由は、石原千秋氏をはじめ多くの人が指摘するとおり、戦後日本の国語教育が道徳の役割も担っていたからだろう。だが、なぜ悲しい話が道徳教材になるのか。単に道徳なら、勧善懲悪のスカッとする話になりそうなものだ。うなぎを盗んだごんぎつねがうなぎになる魔法をかけられたり、スーホの白い馬を奪った殿様の目をハトがくりぬいたりするのが訓話というものではなかろうか。

書き換えられた「ごんぎつね」

国語教科書界に燦然と輝く悲しい話のマスターピースといえば「ごんぎつね」だが、実は教科書に掲載されている「ごんぎつね」は、新美南吉の原作とはいくつかの点で大きく異なっている。「ごんぎつね」は、地方在住の無名の投稿青年だった当時18歳の新美南吉が『赤い鳥』に投稿した作品である。同作は主宰の鈴木三重吉の目にかない、昭和7年1月の『赤い鳥』に掲載される。その際、子供たちの作文同様に、「ごんぎつね」も鈴木三重吉によって書き換えられていたのだ。

どれほど内容が違うか、教科書版の「ごんぎつね」と新美南吉の草稿「権狐」とを比べてみよう。

ごんは、うなぎのつぐないに、まず一つ、いいことをしたと思いました。
「ごんぎつね」(教科書版)

権狐は、何か好い事をした様に思へました。
「権狐」(草稿)

教科書版では、ごんはいたずらで兵十からうなぎを盗み、そのせいで兵十の母親が死んでしまったと気に病んでいる。そのおわびに盗んだイワシを兵十の家に届けてあげたと読み取るべきシーンである。しかし草稿では、「つぐない」とは明記されていない。前後を読んでも、どちらかというと兵十が自分と同じ孤独な身の上になったことにシンパシーを抱いている印象が強い。ごんがイワシを盗んだせいで兵十は魚屋にひどい目に遭うのだが、草稿ではそこでようやく「そして権狐は、もう悪戯をしなくなりました」と不良ギツネから更生する。ごんの共感の対象は兵十だけなのである。

ごんは、へえ、こいつはつまらないなと思いました。おれが、栗や松たけを持っていってやるのに、そのおれにはお礼をいわないで、神さまにお礼をいうんじゃア、おれは、引き合わないなあ。
「ごんぎつね」(教科書版)

権狐は、つまんないなと思ひました。自分が、栗やきのこを持つて行つてやるのに、自分にはお礼云はないで、神様にお礼を云ふなんて。いつそ神様がなけりやいゝのに。
権狐は、神様がうらめしくなりました。
「権狐」(草稿)

貢いでいるのがごんだと気づかれないのは神のせいではないと思うが、それでも「神様がいなけりゃいい」とまでいう草稿版のごんは、はっきり神様に嫉妬している。ここから読み取れるのはやはり「つぐない」ではなく、貢ぎ物で兵十の関心を自分に向けたいという強い愛着だ。きわめつけは、最後の感動シーン。

「ごん、お前だったのか。いつもくりをくれたのは。」
 ごんは、ぐったりと目をつぶったまま、うなづきました。
「ごんぎつね」(教科書版)

「権、お前だつたのか…、いつも栗をくれたのは―。」
 権狐は、ぐつたりなつたまゝ、うれしくなりました。
「権狐」(草稿)

鈴木三重吉が草稿版の「うれしくなりました」を削除したことが、「ごんぎつね」を教科書にふさわしい名作にしたことは疑いない。はっきりごんのお気持ちが書かれてしまっては、テストにしようがないからだ。それ以上に、ここでごんがうれしいという気持ちを抱いてしまうと、贖罪の物語ではなく(教科書にふさわしくない)愛のストーカー物語になりかねない。事実、新美南吉の草稿を通して読むと、悪さを通してでしか他者と関われなかった孤独な不良が初めて同類が現れたという共感から母を亡くしたばかりの男性に愛着を抱き、不器用なプレゼントでつながることを望みながら、撃たれて初めて振り向いてもらえて「うれしくなる」話にみえる。草稿は最後までごんの感情に寄り添って描かれている。

一方、鈴木三重吉が手を入れた「ごんぎつね」は、本来はごんのせいではない兵十の母親の死の責任を勝手に感じ、つぐない行為をした上で撃たれる。ごんがひたすらかわいそうなお話である。ずっとごん目線で話が進んでいくのに、最後は撃った兵十の視点に切り替わる(ごんの内面は描かれない)ことで、よりいたたまれなさが増す。子供たちは「撃たれてわかってもらえてよかったなんて思うわけないじゃん。なんで撃ったんだよオメーってキレるのが普通っしょ」とひそかに不満を抱きつつも、「ごんが最後にうなずいたとき、どんな気持ちだったでしょう」という問いに「わかってもらえてよかった」と書くのである。言い方を変えれば、書き換えられた「ごんぎつね」はけなげな弱者に取り返しのつかないことをした罪障感が、弱者の無条件の受容により解放され、カタルシスとして昇華される物語ともいえる(ごんが最後に「ひどくね?」と言って息絶えたら、誰も感動しないだろう)。ごんは肉体的に死んだだけでなく、嫉妬を伴う兵十への欲望を消されたことで、泣ける名作になった。

「スーホの白い馬」にも同じ構造がある。殿様のもとからスーホを慕って逃げ出してきた白い馬は、傷だらけのまま死んでしまう。スーホの夢に現れた白馬は「そんなに、かなしまないでください」と語りかける。自分の死体で楽器を作れば、「わたしはいつまでも、あなたのそばにいられますから」。こちらもけなげな弱者が、殺されてもなお死体を人間に役立ててもらおうとする受容的な態度を見せる。私が白馬なら「馬をダシに殿様の娘をゲットしようと欲をかいたからワイがこんな目に!」と恨み言の一つでも言ってやりたいところである。元はモンゴル民話だが、現地では日本ほど知られてはいないというから、こうしたストーリ―を好むのは日本人特有の感性なのだろうか。

「生者の罪障感」に赦しをあたえる国語教材

聖光学院中・高教諭の野中潤氏は、戦後の中学・高校国語教科書で定番化した「こころ」「舞姫」「羅生門」に共通しているモチーフとして、「犠牲を足場にして生きることでイノセント(無垢性)が損なわれ、汚れを抱え込んでしまった生者の罪障感」があるとしている。定番3作品は「罪障感を抱え込んでいる生者に対して、何らかの許しや癒しを与える」物語であるからこそ、戦死者に対して罪障感を抱えていた敗戦後の日本人に必要とされたのではないかという分析だ(「定番教材の誕生 『こころ』『舞姫』『羅生門』」野中潤)。

小学生国語教科書の悲しい話には「ちいちゃんのかげおくり」「一つの花」「かわいそうなぞう」と、戦争ものが少なくないから、この分析は小学校教科書にも当てはまりそうだ。ただ、作品が採用された時代は戦争体験者が現役だったろうが、今でも戦死者に対する罪障感を抱えている人はどれだけいるだろうかという疑問もある。採用の背景に敗戦のスティグマがあったにしても、これらの作品が今も支持されて現役であるということは、戦争体験の有無を問わない情緒をかきたてるからだと考えるほうが自然だ。

母性幻想と国語教科書

ここは、「ごんぎつね」からごんの欲望を消し、けなげで無垢な弱者の泣けるお話にアレンジした鈴木三重吉の童心主義に着目したい。童心主義は、純真無垢な子供を賛美するとともに、伝統・自然の中で子供のすべてを受容する母を理想化する他者のない世界である。これが他者の自我と対峙しなければならない近代社会からの逃避先として機能してきたことは、これまでの連載でみてきたとおりだ。鈴木三重吉、北原白秋とともに『赤い鳥』に関わった童話作家・小川未明の母性論を見てみよう。

真に子供の為めに尽した母に対してはその子供は永久にその愛を忘れる事が出来ない。そして、子供は生長して社会に立つようになっても、母から云い含められた教訓を思えば、如何なる場合にも悪事を為し得ないのは事実である。何時も母の涙の光った眼が自分の上に注がれて居るからである。これは架空的の宗教よりも強く、また何等根拠のない道徳よりももっと強くその子供の上に感化を与えている。神を信ずるよりも母を信ずる方が子供に取っては深く、且つ強いのである。実に母と子の関係は奇蹟と云っても可い程に尊い感じのするものであり、また強い熱意のある信仰である。そして、母と子の愛は、男と女の愛よりも更に尊く、自然であり、別の意味に於て光輝のあるもののように感ずる。
小川未明「愛に就ての問題」(大正11年)

母の涙と献身は道徳以上に子供に感化を与え、母性信仰は宗教以上に強いと小川未明は断言する。童心主義以降の知識人は、神の代わりに「無償の愛で尽くす母親」がかきたてるロマンティシズムを道徳の機軸としてきた。ファシズム期に入ると、国家のために死ぬ若者の自己犠牲も母性とセットで美化の対象となる。純粋無垢でけなげな存在の自己犠牲に感動する心性が、戦争を通じて国民全体に広がっていく。戦争が終わっても、自然・伝統・自己犠牲を賛美する母性幻想は平和主義と結びつき、国語教科書に根強く残った。母の死はおいそれと子供相手の教科書には盛り込めないが、動物であれば強い自我をもたないけなげな弱者として自己犠牲を扱いやすい。小学校国語教科書に動物ものが多いのも、自然=善/文明=悪といった図式が多いのも、母親に比べて父親の影が薄いのも、自我解放をもたらした近代への嫌悪と母性幻想が道徳の背景にあるからではないか。教育勅語に基づく修身教育をGHQに否定された戦後教育は、子供たちにすべてを受容する自我の薄いけなげな存在に感情移入させることで、道徳的な感化を与えようとしてきたのだろう。

そこには、子供を戦争に送り込んだトラウマから、感動によって子供たちに反戦意識を持ってもらいたいという大人の善意もあったはずだ。

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不道徳お母さん講座

堀越英美

核家族化で家庭教育はダメになった? 読み聞かせで心を育てるって……本当に? 日本で盲信されてしまっている教育における「道徳」神話の数々。そのすべてを、あの現代女児カルチャー論の名著『女の子は本当にピンクが好きなのか』でセンセーションを...もっと読む

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コメント

murara_s こちらも合わせて読まなきゃね! 27日前 replyretweetfavorite

twtcbn 草稿のごんぎつねなかなかに兵十への感情が重い。 2ヶ月前 replyretweetfavorite

kumapad https://t.co/iypx3Dwiom >音読がつらい国語教科書 >TOEICの教材がビジネス会話でなく動物や幼児が死ぬ話ばかりだったら、悲しくて英語の勉強どころではなくなってしまいそうだ。 確かに(^_^;) 7ヶ月前 replyretweetfavorite

tukihaniwa 「どうせきれいごとなら、鬼が排除される童心主義より、鬼と一緒にきびだんごを食べて踊って日が暮れる世界を夢見て生きたいと思う」に、賛成です。 書籍化したら買います。 https://t.co/51RnpmPnMi 7ヶ月前 replyretweetfavorite