サンタナのアルバム・ジャケット
平野啓一郎(以下、平野) 横尾さんは音楽との関係も深いのですが、じつは僕自身も横尾さんの存在を初めて知ったのは、中学生のときにサンタナの『アミーゴ』というアルバムを買って、「これ、日本人がデザインしているんだ」というので「横尾忠則」という名前を知りました。
その頃、僕はちょうど三島由紀夫に傾倒し始めた時期だったんで、「ここに名前の出てくるあの横尾忠則が、このサンタナのアルバムを作った人か」とだんだん自分のなかで結びついていったんですけど、ビートルズとかローリング・ストーンズとか、横尾さんも早い段階からロックを聴いていたんですか?
横尾忠則(以下、横尾) 67年にアメリカに行くまで、僕は演歌ばっかり聴いていたんですよ。
平野 そうですか。ではどういった経緯で、ロックミュージシャンのアルバムのジャケットの仕事などされるようになったのですか?
横尾 最初はね、これはサンタナの前なんだけれども、日本でカラージャケットを作ったんです、一柳慧さんと。そのときに、ビートルズに送ったんですね。
そうしたら、ジョン・レノンとリンゴ・スターから手紙が来て、「俺たちも、こういうカラーレコードを作りたい」と。そこで僕は会社に話をしたんだけれども、それをやると何百万という数を作るから、日本に工場を建てないといけない。「それはできない」と言われて、「ああ、そういう美味しい話っていうのは大体実現しないものだな」と思っていた。
それからしばらくして、サンタナの話がきたんですね。サンタナを率いるカルロス・サンタナはインドの宗教に傾倒していて、シュリ・チンモイというグル(指導者)に師事していたんです。その頃、僕も精神世界的なものに興味があったから、ソニーの人がサンタナに僕を紹介してくれたんです。
そうしたら、彼がすぐに気に入って、「とにかくアルバムのジャケットを作ってくれ」というのでデザインした。最初は『ロータスの伝説』(1974年)で、ダブル・ジャケットだったんです。だから4ページですよ。でも気がついたら22ページになって、すごく大がかりなものになっちゃってね。
平野 その頃は、もう音楽としてもロックをよく聴くようになっていたんですか?
横尾 そうね。67年にニューヨーク行って、いきなり聴いたのはクリームです。「ロンドンから、ビートルズよりすごいグループが来る」と言うんだけど、僕はクリームを知らなかったんです。
それで小さいライブハウスでクリームを聴いて、びっくり仰天。「これ、何?」という感じで、ベトナム戦争の戦場に自分がいるような、音響にインボルブされてしまってね。「ロックってすごいな」と。
ニューヨークにいる間はフィルモア・イースト、それからウォーホルが作ったエレクトリック・サーカスでヴェルヴェット・アンダーグラウンドらがやっていたのを知って、もう毎週のように行っていた。そこで僕はロック漬けになっちゃったんですよね。
思想を持たない思想
平野 60年代から70年代にかけて、宇宙や神秘体験など、さらにいろいろなものにテーマを広げていかれます。
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