1967年のニューヨーク
平野啓一郎(以下、平野) 1970年に三島由紀夫が亡くなって、その前後で横尾さん自身の御仕事も変わっていくところがあったと思います。
60年代、日本では横尾さんのポスターはかなり注目されました。最初に見た作品でもあったように、「腰巻お仙」はじめ代表作をどんどん描かれていて、その頃の仕事の手応えというのは、いま振り返られてどうですか?
実際、文学や芸術の関係の人たちから横尾さんの作品はすごく支持されたと思うんですけれど、それでもやっぱり自信がなかったのか? それとも、アーティストとしての自信がだんだん芽生えていった時期だったのか?
横尾忠則(以下、横尾) その頃、自分でも見たことのないポスターができたので、「これは面白いのができたな」と思ったんです。
そのあと連続的に作っていって、デザイナー以外のいろんな人たちが僕のポスターを必要としてくれて、彼らの仕事とコラボできるようになっていった。そのときは自信ができましたね。それを評価してくれる人たちが、その時代の最先端の文化人ばかりだから、たしかに大きい自信につながりましたね。郵便屋さんは消えました。
平野 グラフィックデザインの世界というよりも、どちらかというと文学者が横尾さんの作品に反応していたという感じだったんでしょうか?
横尾 あの時代のグラフィックデザインは、1960年に世界デザイン会議があって、そこからいっせいに、「これからのグラフィックは、モダニズムデザインだ」という運動が始まったわけですね。
そんなモダニズム全盛の矢先に、僕はモダニズムが排除したものを拾ってきて、それを作品にした。そういうわけだから、「余計なものを作ってくれたな」という考え方が、日本のデザイン界の、その時代のトップの評論家たちにあって、僕にはどこか批判的だったんです。
でも、その頃から急にアンダーグラウンド的なものが日本のヤングカルチャーに刺激を与え始めて、若者文化のオピニオンリーダーの一人になって、若い人たちの支持を受けるようになっちゃったんですね。
それからは、僕は他の文化人たちと一緒に仕事をするようになったので、自然にデザイン界から足を洗うような方向に来てしまったんですよ。
平野 考えてみると、60年代に「いまこそモダニズムだ」と言い始めるのも、時代的にはかなりずれていて、やはり横尾さんの作品が先を行っていたという感じですね。
国内での評価とは別に、1967年には「状況劇場」や「天井桟敷」のポスターがニューヨーク近代美術館にパーマネント・コレクションとして収蔵されます。横尾さんご自身もその年にニューヨークに行かれて、海外で自分の作品が評価されていることを実感されたのではないでしょうか?
横尾 1967年というのは、ビートルズが『サージェント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド』を出した年なんです。その年に僕はニューヨークに4カ月近くいるんだけども、その頃のニューヨークが最も熱かったですね。
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