本当に散々だった私の大学デビュー
この社会には「一年の終わり」が2回あって、それは12月と3月です。長かった冬を抜け、桜の枝を見ればいつの間にか満開の花が咲き乱れている。いよいよ春も本番です。 3月って、何かの終わりと何かの始まりが混在したような不思議な季節ですよね。
大学とは基本的に放任主義の場所であり、誰も何も言ってくれない。そういう環境では、閉じた人間関係の中に引きこもったり、マニュアルを提供してくれる何かに飛びつきたくなったりするのも仕方ない。しかし、「自分と向き合う時間がたっぷりある」というのが大学生の特権であり、恐れずトライアンドエラーを繰り返してみよう(もちろん上手なリスクヘッジも忘れずに)!
……というようなメッセージを我々はここでに送ってきたつもりです。学部生・院生・教員と、長年大学に通い続けるトミヤマさんは、その豊富なキャンパス経験を背景に、ときに厳しく、ときに優しい助言をつづってくれました。私も学生時代に経験した苦悩や、桃山商事の活動を通じて考えてきたことをもとに、頑張って大学1年生の歩き方を考えてみました。手前味噌で恐縮ですが、地味ながらもなかなか有用なアドバイスではないかと思います。
振り返ると、私の大学デビューは本当に散々なものでした。中高一貫の男子校に通い、大学受験に失敗。そして浪人時代は毎日朝6時から夜12時まで必死に勉強し、念願の志望校にめでたく入学。ここから華やかなキャンパスライフが始まるかと思いきや、待っていたのは敗北感と焦燥感に充ち満ちた日々でした。授業にマジでついて行けない、クラスは女子ばかりで何をしゃべっていいかわからない、知らない人が怖くて新歓コンパに参加できない、だからどのサークルにも入れない、友だちが全然できない、金がない、やることがない、コネもセンスも才能もない、ヤバい、俺にはマジで何にもない……。そして5月の誕生日に、高校時代から2年間つき合ってきた恋人にフラれました。
圧倒的に「doing」重視の現代社会
しかし、大学はとにかく「包容力」のハンパない場所でした。スタートダッシュにつまずいてふて腐れてる私になど一切の関心も示さず、図書館で一日中スヤスヤ寝てても、ベンチでずっとマンガを読んでても、食堂で友だちとだらだらしゃべってても、一向にお構いなし。こんなことが許されるのって、実は人生の中で大学だけなんじゃないかと思います。
中学や高校だと先生に叱られるし、実家じゃ親に心配されるし、会社だったら即効クビになるでしょう。しかし大学だけは、私たちのことを子ども扱いも大人扱いもせず、「いること」をただただ許してくれる。こんな場所、よく考えたら大学以外になかなか見当たりません。私は現在フリーランスの文筆業者ですが、近所の公園で日中ぼけーっと座ってるだけで子連れのママさんたちに警戒されます。カフェでのんびりしてても店員さんにそれとなくプレッシャーをかけられます。ああ、何も問わず存在を許容してくれた大学の包容力が恋しい……。
唐突で恐縮ですが、英語で人間を表すと「human being」になります。「being」というのは、つまり存在のこと。ここにいて、何かを感じながら生きている。そういう人間の在り方を「being」と言います。実は人間を表す英語にはもう一種類あって、それは「human doing」という言葉です。「doing」とは行為のことで、何かを行い、その結果として得たものの総体として人間を捉える言葉が「doing」です。
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