「絶対におかしいって!」
車内に相川響妃の声が響く。
秋山明良が運転する車は、群馬の山中を走っていた。対向車もほとんど来ないような奥地である。先ほどから、同じことを繰り返されて、運転しながら、秋山はもううんざりしていた。
「一〇二歳のおばあちゃんだよ? もう少しで死ぬんでしょ?」
「そういう言い方はないだろ」
「でも、でも、でも、よく考えてよ。一〇二歳のおばあちゃんを殺して、何の得があるの?」
「誰に何の得があるか、僕だって知らないけど、でも親父からの情報によると、間違いないって」
秋山がその情報を得たのは、新聞記者の父からだった。自分では動けないから、この件、調べてみないかととても奇妙な話を秋山にした。
響妃に言われるまでもなく、秋山もおかしい話だと思った。けれども、あの父が言うのだから、ガセネタということはありえない。
「だからさ、ついて来なくていいって言ったのにさ」
「てか、もう、ここまで来ちゃったよ。どこ、これ。山奥? 遭難?」
響妃は両手を雨乞いするかのように天に向かって広げ、短い髪を振り乱すようにして言う。
先ほどから左手の森林の合間に、大きなダム湖が見えていた。昼の光を反射して、水面が眩しく光っていた。
助手席に乗る響妃の髪が、光を受けて黄金色に煌めく。認めたくはないけれども、やはり、響妃の横顔は絵に描いたように美しいと秋山は思った。それを認めてしまうと、なぜか、無性に腹が立った。
このダム湖の周囲のどこかに、目標の老人ホームがあるはずだった。 ところが、湖があまりに大きく、どこにあるのか、見当たらないのだ。
「この湖の底に、村が沈んでるって考えると、なんだか怖いよね」
響妃は、窓の外を眺めながら言う。
今から四〇年前、当時日本一の規模と言われたこのダムを建設するために、ある小さな村が沈められた。政権がかわるたびに、建設の是非が議論されたが、結局はこうして巨大なダムができている。
数千億円というお金が動いたという。その額は、もはや小さな経済とでも言えるような規模で、このプロジェクトで多くの人の運命が変わっただろう。 工事を受注した大手のゼネコンばかりではなく、下請け、孫請けの会社、村の移転から生じる膨大な仕事など、数万人の人生に影響する事業だった。
「今から行く老人ホームには、その村のことを知っている人たちがいる」
うん、と響妃は頷く。
「でも、自分の生まれ故郷が湖の底に沈められるって、どんな気持ちなんだろう」
秋山は想像してみた。
自分が通った小学校が、遊んだ公園が、生まれた病院が、いつも通っていたスーパーが、そして、自分が育った家が、水の底に沈む。 思い出の拠り所となる、あらゆるものが沈められたとき、人は何を感じるのだろう。
「うまく、想像できないよね……。見えてきた、あれじゃないかな?」
秋山は、アクセルを緩める。深い緑が左右から覆いかぶさるように門があって、鉄扉が内側に開いていた。その林の向こうに、建物が見えた。
「大きい。老人ホームというより、美術館か、文化会館って感じね」
響妃の言うとおり、老人ホームにしてはとても大きな施設で、近代的なデザインがなされた最先端のコンクリート建築物が林の中にあった。
「ま、国から移転費用がだいぶ出たのがわかるよね」
ダムの対岸に、その老人ホームはあった。遠くに、コンクリート製のダムが、まるで万里の長城のように見えた。ここから、かなりの距離があるように見える。
庭がダムの湖畔に面していて、公園のように整備してあり、ベンチが置いてあった。空が、青かった。澄み切っていた。
「本当にいいところね」
響妃が言うように、そこは老人ホームの印象とはかけ離れた、楽園のような場所だった。
駐車場に車を停めて、外に出てみる。 冷ややかな山の空気が、肌にとても気持ちがいい。
「贖罪、なのかな」
秋山は目の上に手をかざして、ダム湖を眺めながらつぶやくように言う。村を沈める罪悪感 が、この壮麗な建物に転化されたようにしか思えない。
「誰の、誰に対しての?」
わからない、と秋山は首を横に振る。
「でも、この施設なら一〇二歳まで長生きするのもわかるよね」
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