イラスト:堀越ジェシーありさ
その日は一日中何をしても集中できないままだったが、とにかく普通に過ごそうと心がけた。何か別の理由で夢の修正が利かなくなるのでは、という不安があったからだった。
朝から英語の授業を葵と一緒に受け、また何でもない話をベンチに座ってする。葵は相変わらず英語の文法の複雑さを嘆いている。
大学が終われば、今日はスタジオで練習だ。先週すっぽかしてしまった分、今日は頑張らなくてはならない。
「健人、もう風邪治ったのか?」
スタジオで、良介が会うなり心配してくれた。気にしてくれていたみたいだ。
「うん。もう元気だよ。先週ごめんな」
「いいよいいよ。夏風邪流行ってるらしいしな」
今週も前回やったThe Smithsの曲の練習だ。みんなしっかり練習してきたようで、ノリが前より気持ちよくなっていることが体で感じられる。
練習のあとは、いつも通り焼き鳥屋にご飯を食べに行く。幸せなルーティン。良介は新しい都市伝説のネタを幾つか仕入れてきたようで、みんなに披露していた。浩二は週末に久しぶりにバスケをしたらしく、筋肉痛らしい。
楽しい時間が過ぎていき、今はテストも近い時期なので、前回より早めに解散することになった。
外に出るとクーラーの効いていた店の中との気温の違いに驚く。週が過ぎるごとに暑くなっているようだ。良介と浩二は駅の方へと歩いて行き、健人は葵と二人きりになった。
帰ろっか、と葵が言った。健人は今日、この時の為に一日を過ごしてきた。
夢の修正はしてもらった。だから、あとは確かめるだけだった。
「健人、最近ずっと変だったけど、大丈夫?」
「うん、心配かけてごめんな」
「なんか、先週変なこと言ってたよね。結局何だったの?」
外出するなと言っていた時のことを、やっぱり気にしているようだ。
「風邪ひいててさ、変な夢見たんだ。葵がいなくなる夢」
健人は少しの嘘を交えながら説明した。
「でももう大丈夫。その夢はなくなったから」
「なくなったの?」
葵はクスクス、と笑った。ちょっとした会話でさえも、今日は愛おしく感じる。楽器屋で見たブルーのギターの話でしばらく盛り上がり、二人はいつもの分かれ道まで来た。
「夏、どこに行くか考えててね」
そう言って手を振る葵の後ろ姿を見ていた。
夢で見た景色と同じ。小さくなった後ろ姿が街灯に照らされて揺れる。静かな夜の景色に葵がゆっくりと溶けていく。
声をかけたくなる。でも、大丈夫。あの夢はもう存在しない。だから、あんな現実も存在しない。
小さくなった葵の背中は、角を曲がって見えなくなる。
良かった。これで本当におかしな夢から解き放たれた。体が軽く感じる。
振り返って歩き出そうとすると、どこにでもあるようなグレーの車が停まっていた。
夢の中では赤い色をしていたはずだ。その向こう側にはもちろん扉などない。
近づいて、夢で扉があったはずの所に手を当ててみた。
何の跡もない、ただの雨にさらされて少しくすんだコンクリートの塀である。
冷静な口調で話していた管理人の顔が、少しずつ浮かばなくなってきている。
夢の記憶は儚い。
葵もそんなことを言っていた気がする。こうやって現実の世界に生きていくうちに、夢の世界のことは忘れていくのだろう。
あの場所は、今夜も人々に夢の要素を送り出すのだろうか。きっと、もう行くことはできないのだろう。
それでもいい。これから夏が始まる。葵が笑ってくれていたら、それでいいやと健人は思った。<第一章 fin>
【次回は第二章がスタート!】
麻美は最近、一年前に他界したおばあちゃんの夢をよく見ていた。内容ははっきり覚えていないのだが朝起きるとなぜだかいつも涙を流していた。そんなおばあちゃんがよく話してくれた「夢工場」の話。その時は、その話の意味を理解していなかった——