ありのままは本当にありのままか

不道徳なお母さんライターが、日本の「道徳」のタブーに踏み込み、軽やかに、完膚なきまでに解体! 歴史をさかのぼり、日本人の「道徳観」がどのようにつくられていったか、その過程をさぐります。今回のテーマは「作文」。明治からの「言文一致」を経て、自分の感じたままに「ありのままに書こう」と教わってきた日本人。さて、その「ありのまま」は、誰がどのように定めたものなのか? ……という今回も必読のお話です。

「自分の感じたとおり」が大切?

つい先日、古い図工の教科書に載っていたこんな文章がSNSに転載され、名文だと絶賛された。

図画工作の時間は、上手に絵をかいたり、ものを作ったりするのが、めあてではありません。
じょうずにかこうとすることよりも、見たり考えたりしたことを、自分の感じたとおりにかいたり作ったりすることが大切です。
しんけんに、絵をかき、ものを作り続けていると、じょうずになるだけでなく、ひととしての感じかたも、育ちます。
このくり返しのなかで、自然の大きさがわかり、どんな人にならなければならないかが、わかってきます。
これがめあてです。
佐藤忠良「この本を読む人へ」『子ども美術1』現代美術社初版1980年

多くの人が褒めたたえる中で、「自分は自由に描けと言われて逆に困った。感じた通りに描くには技術が必要」「そうはいっても成績をつけるならしょせんきれいごと」という声もあった。感じ方は人それぞれだが、このような「見たり考えたりしたことを、自分の感じたとおりにかいたり作ったりすることが大切」という教育観は、国語の作文指導にもみられ、日本特有のものとされている。

前回見た通り、「個」を消して型通りに動く従順な身体であることを求められる運動会や各種儀式は、天皇制によって近代化を進めた過程で生まれた日本特有の学校文化である。一方で、作文や図工となると、型の練習よりも「感じたことをそのまま書きなさい」と子供らしいのびのびとした表現が求められる。縛り付けたり放置したり、日本の学校は気まぐれサディストのようだ。

「ありのまま」は短歌・俳句から始まった

ありのままの表現こそがすばらしいという考えは、俳句雑誌『ホトトギス』主宰の正岡子規と高浜虚子が明治30年代に提唱した「写生文」から現れる。「或る景色を見て面白しと思ひし時に、そを文章に直して読者をして己と同様に面白く感ぜしめんとするには、言葉を飾るべからず、誇張を加ふべからず、只ありのまゝ見たるまゝに」(正岡子規「叙事文」)。技巧を凝らした文語調の美文がありがたがられていた時代だったから、飾らないありのままの文章という概念は新鮮に受け止められた。

そのころ、小学校では明治33年の小学校令改正で「読書」「作文」「習字」の3学科が「国語」に統一される。それにともない、作文が「綴り方」と呼ばれるようになり、模範文を「改作」させていた従来の作文授業が、子供の日常や考えなどを簡単でわかりやすい「普通文」で書かせるという指導に改まった。

明治34年9月には、さっそく小学校令改正に対応した例文集『言文一致 普通文つゞり方』(松山伝十郎 編)が刊行される。同書の冒頭には、「決して美文的に仕向けるといふ意味では無い。只児童の考へたこと、及び児童の容易く考へ得ることを、ありのまゝに書かせるといふだけである」のが小学校令が定めた普通文の綴り方であると説明されている。続けて、中秋の名月を愛でたり借金の依頼文を書かせるような従来の作文授業とは異なる、子供らしい文例を集めたと編纂の趣旨が語られる。収録されている文例は、日常見聞きした出来事を記せという小学校令に合わせて、潮干狩りや動物園、サーカス、蛍採り、蕨採りの感想文が多い。現代の学校で課せられる「遠足の感想文」に近いものを感じる。

植物の作文「南瓜を栽(う)う」という文例では「実は最初に青く、段々大きくなるに連れて黄色に変って来るが、今はちょーど青と黄の斑になった位の所で、而も石臼のよーな大きいのが、ゴロ/\としてぶら下って居るので、中々の観物です」と、あくまで観察に徹している。それまでの作文指導は植物について書くとしても「糸瓜ハ瓜ノ類ニシテ其実熟セザルハ食トスベシ」(『新定作文書 : 高等小学校生徒用』明治26年)といった定義文が主流だったから、「写生」概念が学校の作文教育にも影響を与えたことがわかる。

手紙は「話そーと思ふよーに」

手紙の文例も多く、「只自ら口にて話そーと思ふよーに、自然のまゝを筆に写せば宜しいのである」という文章指導もあわせて掲載されている。友達の忘れ物の連絡文はこんな感じだ。

時に皆様が御帰りの後で、玄関に風呂敷包が一つ残ってあるのに気がついて、段々調べて見ると、どーも君のものらしく思はれる。兎も角も持たせて上げますから御覧下さい。併し、中に巻煙草の絵カードが沢山あるよーだが、君は眞逆(まさか)に禁煙令を犯して居るのではあるまいナ。どーです。

どーです。ありのままに言文一致を追求するとこんな文章になることがわかりますナ。いわゆる標準語が固まるまで、「昭和軽薄体」ならぬ「明治軽薄体」と呼びたくなるようなくだけた文体も、言文一致体として初期の国語には取り入れられていた。現代の私たちは、「文語で文章を書かなきゃいけないなんて、明治前半の人たちかわいそう」と思ってしまうが、私たちが国語で習い覚えた標準語も、なかなかどーして言文一致とは言い難いのだ。

日常の出来事をありのままに観察せよという指導の一環として、日記の文例も紹介されている。

八月一日 日曜  今日不在の間に水盤の金魚をブチに捕られた。癪に障ったから拳固で頭を一つ擲って見たが初まらぬ。実に残念な事をした

猫を殴るわ友達の喫煙をいじるわ、文例中の男子はちっとも子供らしさがない。大正時代に童心主義が現れるまでは、これが「ありのまま」の男子の姿とされていたのだろう。

そもそも、『言文一致 普通文つゞり方』に収録されているのは男子の文例ばかりだ。話し言葉に近い当時の言文一致作文では、模範的な作文は当然男女で異なるものとされた。女子の例文も掲載している『高等小學言文一致文』(明治35年)では、「又男と女とは其言葉の趣が自然に少し異なつて居るでせう。即ち其ちがひの通りに書き分ければよいです。しかし、あまり言ひぶりのぞんざいなのは、いやしいから、同輩の人におくる手紙も、通例のことばよりは、少し丁寧な方を用ふるがよろしい。殊更女子はこの点に注意せねばなりませぬ」と、男女で文体を変えることが奨励されている。

「我等の楽み」
四季いろ/\の遊び、それは楽しくないではないが、勉学の楽しさには如何なる遊びも決して/\勝りはせぬ。あゝ我等の真の楽みとは即ち此事であるではないか。

「女子の遊」
此様に四季いろ/\の遊びの外、お手玉、七子、石はぢち、襷取り、かづら、酸漿いぢりは何れも面白いもので、飯ごとは幼い時の遊です。私等女子の袂の中には—笑うて下さるな、今でも小さな人形が入って居ます。

同じテーマの文例でも、男子は「である」調で遊びよりも勉強を優先する姿勢を示し、女子は「ですます」調でへりくだりながらおままごとの話をしている。男子は立身出世、女子は良妻賢母。「ありのまま」に書きなさいといっても、その「ありのまま」は性別ではっきり分けられた望ましい大人予備軍としてのものでなければならなかった。

素行調査としての日記

『言文一致女子普通文』(明治34年10月)には、「小女の日記」の文例も収録されている。

七日。半どん。あさ私が、菊ちやんをおさそいせうと思つてたら、菊ちやんがさそいに来て。私くやしかった。
今日のお清書は、きのふおばさんにもらつた筆でかいたら、大へんかきようかった。
夕方、おつかさんと、不動様の縁日に行つて、手帖と、花かんざしを買ていたゞいた、太郎ちやんは豆鉄砲を。

学校でこのような日記を書かせることには、作文の練習のほかに、家庭での素行調査の意味もあったようだ。同じ理由で夏休みの宿題に日記が課せられるのも、このころから行われている。

高等小学校の生徒には、成るべく日誌をかゝせるがよい。ことに、夏季休業とか、冬季休業とかには、日課として、必ず之をつくらせるがよい。生徒の方から云へば、綴り方の練習に、恰好の材料であるし、教師の側から言へば、家庭の真相を詳述したところの、適当な報告書である。
『小学校用言文一致教範』明治35年8月

子供たちに生活をありのままに記録させることで、規則正しい模範的な生活習慣を身に着けさせようという意図もあったかもしれない。

主幹を務めた少女雑誌『少女世界』で読者の少女と交流を深めていた沼田笠峰は、「近頃は、どこの学校でも生徒に日記を書かせることが流行する」と記している(『現代少女とその教育』大正5年)。とある女学生は、日記をつけることについてこんな本音をもらしていたという。

「どんなことツて、私の人気なんか毎日判で押したやうに定まつてゐるんですもの、同じく/\と書いておきたい位ですわ」
「ぢやァ、その通り同じくと書いておけば好いぢやァありませんか」
「だつて、そんなことすりやァ先生に叱られますわ」
「でも、書くことがなければ仕方がないでせう」
「だから、好い加減なことを拵へて書くんですわ。…午前、掃除をして髪を結ふ。午後、歴史の復習なんて、毎日少しづゝ違へて書くんですの」
「それでは嘘の日記ですね」
「えゝ、そりやもう嘘の日記ですわ。でも本当の日記もあるんですよ、別の日記帳が…」
(…)
「そんなことをするのは、あなたゞけなんでせう」
「あら、何誰(どなた)だつてなさるわ。私の学校で本当の日記を先生に見せる方なんて、一人もありませんわ。一年の方でも、日記帳が二ツあるんですもの」
「三 虚偽の日記」(『現代少女とその教育』沼田笠峰)

教師に監視されているのだから、子供からすれば「ありのまま」に書くわけにはいかないのである。

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不道徳お母さん講座

堀越英美

核家族化で家庭教育はダメになった? 読み聞かせで心を育てるって……本当に? 日本で盲信されてしまっている教育における「道徳」神話の数々。そのすべてを、あの現代女児カルチャー論の名著『女の子は本当にピンクが好きなのか』でセンセーションを...もっと読む

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コメント

marekingu #スマートニュース 1年以上前 replyretweetfavorite

kudan9 俳句の話題が出ているけど、おーいお茶とかでやってる俳句賞の子供のやつって「いかにもっ」って感じがして嫌いなんだよね。作者に罪はないとはいえ。 1年以上前 replyretweetfavorite

ataru_mix 「『ありのままが大切』という建前で技術も教えてもらえないまま大人のお気持ちを尊重しなきゃいけないめんどくさいもの」 作文とか図工とか、ね。 1年以上前 replyretweetfavorite

marekingu #スマートニュース 1年以上前 replyretweetfavorite