村上春樹の読み方・特別編『色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年』前編

村上春樹を初期作から読み返してきた本連載。2作品目の『1973年のピンボール』(講談社文庫)評を終えたところで今回は、特別編として発売から早々に100万部を超えた新作『色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年』(文藝春秋)書評です。謎めいた展開が議論を読んでいる本作。finalventさんの『風の歌を聴け』(講談社文庫)、『1973年のピンボール』評を読んだ人なら、そこにこそ村上春樹の本質があることがわかるはず。現在の村上春樹に迫る書評を前中後編に分けてお届けします!

シンプルに描かれたように見える物語

 2013年4月12日に発売された村上春樹の『色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年』(文藝春秋)は静謐な文体からは、一読するだけでも豊かな情感が伝わる。だが再読によってさらに多重な響きに潜められたメッセージが受け取れる。その一部を解読してみたい。以下の考察では、この物語が順次開示していく内容の終決までが含まれるので、本書を一読したのちに読まれるとよいだろう。

色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年
色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年

 作品は表面的にはシンプルに描かれている。名古屋で生まれ育った主人公・多崎つくる(Tazaki Tsukuru)は、当地で高校時代、彼を含め男子三人(赤松・青海・多崎)と女子二人(白根・黒埜)の計五人でボランティア活動にいそしむ親密な友情を育んでいた。つくるを除く四人の名字には赤・青・白・黒と色名があり、アカ・アオ・シロ・クロと呼び合っていた。が、主人公の「多崎」という名字には色名が含まれない。彼は「つくる」とのみ呼ばれた。タイトルにある「色彩を持たない多崎つくる」は彼の名字に色名がないということだが、さらに他の四人に比べ自分は個性という色彩が乏しいと了解していることを表している。

 彼が大学進学で東京に出て大学2年生になった7月、事件が起きた。名古屋にいる4名の総意としてアオからつくるに絶交が言い渡され、四人との大切な友情が突然失われた。つくるにはなぜそうなったのか思い当たる節がまったくない。理由を知りたかったがかなわず、精神的な苦痛のなかで5か月間死ばかりを思う日々が続いた。その後、苦悩はなんとか乗り越えることができたが、以降つくるは他者との関係がうまく結べず、不毛な恋愛を数度重ねたものの結婚もせず、物語の現在、36歳になった。

 そこで2歳年上の新しい恋人・木元沙羅と出会う。彼女はつくるの青春時代の友情問題による心のしこりが二人の間の愛情を妨害しているとして、彼に対して事件の真相に向き合い、かつての友人四人と再会するように勧めた。物語は、36歳のつくるがその勧めを受け、20歳の時に途切れた友情を一人一人結び直すことで展開する。またその進展が沙羅との関係を強いものにしていく様子も描かれている。

 つくるが過去に向き合い、友人と再会していく過程がタイトルの「彼の巡礼の年」に呼応しているが、もう一つの意味もある。『巡礼の年』は清楚な女性であるシロが一人でよく演奏していたフランツ・リストによる曲名であり、シロへの追憶が重ねられている。

 過去の友情に向き合うなかで36歳のつくるは、シロがすでに死んでいたことを知る。彼女は6年前に殺害されていた。犯人は物語の表面からはわからない。また、名古屋で一人目に再会したアオから、つくるが20歳のとき絶交を言い渡された理由はシロがつくるからレイプされたという訴えだった、と聞かされた。シロは何者かによってレイプされたのだった。しかしつくる自身には身に覚えがない。なぜシロがそのような虚偽を言い立て、三人を説得してしまったのかも疑問が残った。アオはわからないと言った。名古屋で二人目に再会したアカにも真相を問いかけたが彼も知らなかった。アオとアカの男性二人は、シロの当時の狂乱した状況と女性のクロがそれを支持したことを受け入れただけだった。

 シロの妄想の真相を知るために、つくるは現在クロが暮らすフィンランドにまで向かう。そこで既婚のクロに再会し、当時の状況について詳しい説明を受けた。明確な理由はクロにもわからないものの、クロが語る当時の状況は説得的だった。つくるはクロとの友情を結び直し、16年間抱えてきた心のつかえを除くことができた。その結果、沙羅との結婚すら渇望するように変わった。

不可解なもう一つの物語

 以上がこの小説の主要な物語である。このように抽出すると、常識的に考えれば不可解な点は何もない。中年に至る誰もが、久しく会わなかった若い日の友人との再会に感得する独自の風合いをこの小説は上手に描き出している。また、中年に至った人間が過去に抱えた人間関係による心の傷を、どのように癒していくのかという課題もこの小説は正面から提示している。現在若い世代の読者であっても、中年以降に待ち受ける避けられない人生の問題というものの直観を得ることができる。

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