イラスト:堀越ジェシーありさ
スタジオは大学の最寄駅から歩いて三分ほどの場所にある。学校のあとに練習があるので、火曜日は五限のあと、大学から一度家にベースを取りに帰るか、一日中大学でベースを持ち歩くかのどちらかを選択しなければならない。迷った結果、健人は僅差で後者を選ぶことにした。一度家に帰ると、もう外に出る気をなくすだろうと思ったからだ。
特に今日は、朝起きた時から妙に体が重く感じる日だった。一限の授業はサボって、昼から学校に行くことに決めたくらいだ。昨日夜更かししたわけでもなかったのに、変だなと思っていた。明け方に外から雨の音が聞こえたので、低気圧のせいかもしれない。
五限の授業が終わったあと、ベースを背負って葵と一緒にスタジオへ向かう。時間ぴったりに着いたので、既に良介と浩二も集まっていた。
「おはよー」
健人が言った。良介と浩二もおはよう、と応じる。スタジオでの挨拶はどんな時間でもこの挨拶だ。
「久しぶりの練習だね」
葵が楽しそうに言った。
「もう本番まで一ヶ月切ってるからな! 新しい曲も練習してきたか?」
浩二が大きな声で言った。もう少しボリュームを絞って欲しい。
「うん。ちゃんと歌詞もコピーしてきたよ」
良介が真面目に答えた。
今日初めて合わせる曲はThe Smithsの「This Charming Man」だ。何か明るい曲をやりたいねと言った葵が選んできた曲だった。シンプルでタイトなリズムに、自然と体が揺れてくる。
次のライブは夏休みが始まった頃に、ライブハウスを借りて行われる。そこでそれぞれのバンドが、順番にパフォーマンスをしていく。やる曲はみんなカバー曲だが、知ってる曲で盛り上がるのも、知らなかった新しい曲をそこで聴けるのも、どちらも楽しい。
そしてそのあとの打ち上げで、互いの演奏の感想を言い合うまでが、ハッピーなライブの一日である。本当に楽しい打ち上げを迎えるには、心残りのない演奏をしなければならない。どのバンドも、たとえ演奏が上手くなくても、初心者なりに真剣に練習をしている。今日のリハーサルも、一曲の演奏が終われば、すぐに良介がアドバイスを始めた。
「少し健人がもたる時があるなー。あと、サビの前でいつも浩二は走ってる!」
「了解!」
「うっす」
みんなまだまだ楽器の演奏に精一杯なところがあるので、良介の言葉を素直に受け入れる。バンドは、客観的に演奏を聴ける人がメンバーにいると成長していくものだ。今はその役割を良介が担っている。
その日もみっちり三時間、ほぼ休憩なしで練習を行った。以前に一度合わせた曲もあったが、そちらの完成度に比べて、今日新しく演奏した曲はまだまだだ。
それでも、そうした違いがちゃんとわかるようになってきたことは、健人にとって大きな成長だった。充実感を覚えながら健人はアンプのボリュームを絞る。
「今日このあと時間あるやついる?」
持ってきたキックペダルを片づけながら浩二が言った。
「もちろんあるよー」
葵が手を挙げて応える。残りの二人も、あるよー、と言って予定がないことを伝える。
「じゃあ久しぶりに、いつもの焼き鳥食いに行こうぜ」
「いいね! 賛成!」
四人は春頃、練習後にはいつも駅前にある古い焼き鳥屋に通っていた。その辺一帯にあるお店は大学生の溜まり場になっているが、少し入り組んだ路地の中にあるその焼き鳥屋は、他の店と違った落ち着いた雰囲気がある。練習後は、毎回そこでミーティングという名のご飯会をしていたのだ。
あまり広くない店だが、その日も四人が座れるだけの席が空いていた。このバンドは全員二十歳以下なので誰もアルコールを注文しない健全な会になる。最近は未成年にアルコールを出すと店側にも罰則があるようで、居酒屋の年齢チェックは年々厳しくなっている。
みんなでこの店自慢のもも肉を頬張りながら、次々と新しい話題を語り合う。葵が先輩から聞いた単位をとりやすい授業の話をし、良介が最近観に行った外タレのライブの話をし、浩二が今更観た有名なホラー映画が怖くなかったという話をして、みんなはたくさん笑った。そこから最終的に、良介の怪談話に繋がった。
「怖い話していい?」
という前置きから始まったのは、ドライブをしていた四人組の男女が、心霊現象が起こることで有名な廃病院に悪ノリで忍び込んだ話だった。結局院内では何事もなく、拍子抜けという感じで四人は車に戻って来たが、車のフロントガラスに大量の赤い手形がついているのを見つけたのだ。
「しかもそれは、拭いてもとれない……なんと内側からの手形だったのだ!」
「きゃあ!」
葵のお手本のようなリアクションに良介と健人は笑った。ネットで拾ってきた話らしいが、まるで実体験のように話す様は、かなり完成度が高かった。しかし健人の方は、普段からこうした話をあまり信じないタイプなのでノーダメージである。浩二は無言で表情が少なくなっているところを見ると、平気なふりしてかなりダメなようだ。ホラー映画は自分から観るのに変なやつである。
「ええっと、怪談も面白いけどさぁ、最近見た夢ってなんかある?」
浩二が誤魔化すように別の話を切り出した。
「夢かぁ。私は長い間見てないかも。疲れてるのかな」
葵がすぐに答えた。
「忘れているだけって説も聞くよ」
そう言って、メガネをクイっと上げながら良介が続けた。
「人は毎晩夢を、それも一つじゃなくて何種類も見ているらしいよ。でも朝起きたら大抵のことは忘れてる。夢の記憶は起きてる時のと比べて弱いみたいだからさ」
怪談だけでなく、夢にも詳しいらしい。さすが社会学部だな、という浩二のコメントに、全然関係ないよ、と良介は笑う。夢の記憶は儚いのね、と葵は言った。
最近見た夢。その言葉に健人は何かが頭の中でひっかかっているような気がした。自分にも思い出せない夢があるのだろうか。
「同じ夢を繰り返し見ることって、何か意味があるのかな?」
健人は頭になぜかそんな言葉が思い浮かんで、それを口にした。
「私は何かあるんじゃないかなって思うよ。ほら、夢占いって言葉もあるし。夢からのサインってことかもしれないよね」
葵が楽しそうに続けた。
「私結構こういう話好きで、一時期ネットで調べてたんだよね。噂では、一生に一度だけ見ることができる夢ってのもあるらしいよ。夢の中に扉があって、その先には夢の配達人がいて、願い事を叶えてくれたりするんだって」
「なにそれ、また怖い話か? なんで配達人が願い事を叶えるんだよ」
浩二が笑いながら言った。
「ネットってそういう都市伝説の話が結構あるよな。今度のゼミは都市伝説を題材にレポート書くのもおもしろそーだな。例えば、某遊園地の地下の話とか」
良介が都市伝説の話を始めて、夢の話は自然と終わった。それでも、健人はまだぼんやりと葵が言ったことを考えていた。
扉があって、一生に一度。
願い事を叶えてくれる。
珍しくそうしたファンタジーめいたことが頭にひっかかった。ぼーっとしている間にも、三人は都市伝説の話で盛り上がっている。健人はまぁいいかと思い、今の話に集中しようとした。<つづく>
【次回は…】
焼き鳥屋を出てバンドメンバーと別れ、彼女との帰り道。別れ際に手を振り遠ざかっていく彼女に、灰色のトラックが猛スピードで突っ込んできた。必死に助けようと手を伸ばしたのだが……