今、私がここにいること」は、もしかしたら夢かもしれない!?

今、皆さんが椅子に座っていること、服を着ていること、一冊の本を手にしていること、それが現実の出来事であるという保証はどこにもない。ただ夢を見ているだけかもしれない……たとえそうだとしても確実視できるものはある、とデカルトは考えます。『デカルトの憂鬱』の著者・津崎良典先生は、自分の感覚、つまり自分の判断に忠実に生きれば、最終的に自分の生を大切にすることができると教えてくれます。

09 デカルトはまず「疑う」

私がこれまで受け容れ信じてきた見解のすべてに関して言うなら、自分の信念から一度きっぱりと取り除いてしまう以外に最善の企てはありえない。それは、後になって他のもっと良い見解を改めて取り入れ、前と同じものでも理性の基準に照らして正しくしてから取り入れるためである。 ―『方法序説』第二部

デカルトはマニアックだった!?

 マニアック―一つのことに異常なまでに熱中する人物を形容する言葉。悪口として使用されることもあります。

 哲学者としてのデカルトは、ある意味でマニアックだったと言えます。しかし、何にそこまで熱中していたのでしょうか。一言で述べるなら「確実なもの」です。要するに「絶対に疑えないもの」。そのようなものがこの世界に存在するのか、彼は血眼になって探し求めました。

 ここで少し考えてみてください―私たちの日常生活には、百パーセント、絶対に確実だ、と断言できるものなど本当に存在しているでしょうか。確実に痩せると勧められて高額のサプリメントを服用してみたが、ぜんぜん効かなかったとか、確実に儲かると勧められて投資をしてみたが、多額の損失を出してしまったとか、そのような話はよく聞こえてこないでしょうか。

 しかし、そう断言できる世界があります。数学です。一に一を加えれば二になる。四角形の辺を数えれば四つある。そこには例外がいっさいない。数学の世界には、いつの時代もどこの場所の誰にでも通用するものしか存在しない。デカルトもそう考えていました。実際に『方法序説』は、若き日の彼が最も魅せられたのは数学であったことを伝えています。

 しかし、この数学の世界に亀裂が走って瓦解してしまうことはないのでしょうか。いや、あります。「懐疑」という武器を手にして宣戦布告する時です。

「感覚」はときどき欺く

 デカルトのことが西洋哲学史の教科書や解説書のなかで取り上げられる時、必ずと言ってよいほど次のように紹介されます―彼の哲学の特徴は、これまで確実だと思われてきたものをすべて疑うところにあるのだ、と。しかし、そうやって疑っている自分の存在だけは疑えない、彼はそのことを「我思う、ゆえに我在り」と表現したのだ、と。このような説明は大きく間違っているわけではありません。しかしここでは、いささか偉そうで恐縮ですが、哲学に関心のある人でも案外誤解していることを正したいと思います。

 そこでまずは彼の主著『省察』をもとに、自分は本当に確実なものを手にしているかを検証するデカルトの取り組みを簡単に振り返っておきたいと思います。

 そもそも何かを疑うには、そうするための理由というか根拠が必要です。デカルトは、手探り状態で疑うということをしません。彼に言わせれば、それは無謀だからです。

 それでは、確実だと思われてきたことが実はそうではないと気づかれるケースとして真っ先に何が挙げられるでしょうか。彼によれば「感覚の誤り」がそうです。青色の昆虫に見えたけれど実は緑色で不思議に思ったとか、女性の声に聞こえたけれど実は男性で混乱したとか、こういった錯覚に惑わされることはけっして少なくありません。

 つまり、感覚ほどあてにならないものはない。ということは、感覚の不確かさは、本当に自分は物事を確実に知っているかどうかを疑ってみるうえで、強力な根拠の一つとなりえます。

 ここで、『省察』の冒頭に近いところを読んでみましょう。

「思うに、わけても真なるものとして私がこれまで受け容れてきた限りのものは、どれも感覚から、あるいは感覚を介して私は受け取ったのである。しかし、感覚はときどき欺くということを私は思い知らされてきた。であるから、私たちを一度でも欺いたものは、けっして全面的に信頼しないのが賢明である」

 ずいぶんと思い切った発言です。一度でも私たちを騙したものは絶対に信用しないのだ、と宣言されているからです。だからといって、金輪際、感覚は絶対に信用してはならない、と結論されているわけではありません。ここは大事なポイントですから、しっかりと押さえておきましょう。

 実際にデカルトはこう述べています―「感覚はときどき欺く」。この「ときどき」という留保を見逃してはなりません。感覚は私たちをつねに欺くわけではない。つまり、眼や鼻、耳や舌、皮膚といった身体の諸部分つまり感覚器官は、錯覚しかもたらさない、手の施しようのない機能不全に陥っている、といった極端なことが述べられているのでは全然ないのです。「感覚の誤り」というのは、本当に自分は物事を確実に知っているかどうかを検証するうえで、一つの取っ掛かりでしかないのです。

 ですから検証作業を続けようと思ったら、この懐疑理由は別の理由によって補強されなければなりません。そこで二番目に持ち出されるのが、「覚醒状態と睡眠状態は区別がつかない」という理由です。 『省察』のなかでそう述べられているように、「現に私がここにいること、炉端に座っていること、冬着を身に付けていること、この紙を手に握っていること、およびこれに類することなど」は、すべて夢かもしれない……デカルトはそう自問します。

 読者の皆さんも、今、椅子に座っていること、服を着ていること、一冊の本を手にしていること、これらについては疑っていないはずです。だからといって、それが現実の出来事であるという保証はどこにもない。ただ夢を見ているだけかもしれない。

 しかし、たとえそうだとしても確実視できるものはある、とデカルトは考えます。たとえば、一に二を加えれば三になるといった数の性質について、あるいは、六角形は六つの辺からなるといった幾何学上の定義について、ああだこうだと夢のなかで考える場合です。これら数学に関する事柄は、目覚めていようがまどろんでいようが、つねに確実なものであるように思われます。

 実を言うと私もたまに夢のなかで似たような経験をします。数学の問題を解くわけではありませんが、フランス語で夢をみるのです。夢のなかの会話が部分的にフランス語なのです。しかも、自分のフランス語は間違っていないと確認しながら話している。人は夢のなかで数学の公式を間違わずに使えるように、文法の規則を正確に使うことができる。公式とか規則というのは、自分が起きていようが眠りこけていようがつねに確実なものであると私たちは信じて疑いません。

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デカルトの憂鬱

津崎良典

悩みや心配、悲しみ、怒り、憎しみ……そんな「マイナスの感情を確実に乗り越えられる方法」はあるでしょうか? あの「我思う、ゆえに我在り」であまりにも有名な近代哲学の祖・デカルトが、私たちに降りかかるマイナスの状況にいかに対峙すべきか、「...もっと読む

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marekingu #スマートニュース 2年以上前 replyretweetfavorite