イラスト:堀越ジェシーありさ
大学生になってからの週末は、特にすることがなくゴロゴロしている。何となく、夏休みが始まるまでバイトはしないと決めていた。宿題やレポートも毎日何時間もかかるほどではなく、基本的にインドアの健人は、部屋で本を読んだりベースを弾いたりして休みを過ごしている。この日も午後と呼ばれる時間まで惰眠を貪っていたが、お昼過ぎに葵から突然電話がかかってきた。
「健人ー、今日暇? 夕方から楽器屋さんに、弦を買いに行くの付き合って欲しいんだけど……時間ないかな?」
急な誘いに健人は少し戸惑った。
「ああ、いいけど……。俺じゃ何のアドバイスもできないから、良介とか連れてった方がいいんじゃないの?」
「健人と行きたいんだってば」
葵ははっきりと言った。学校で毎日のように会っているが、考えてみれば休みの日にわざわざ一緒に出かけたことはなかった。改めて誘われるとちょっとどきどきしてしまう。
「うん、いいけど」
「じゃー夕方五時にね」
電話が切れてから、健人は自分がにやにやしていることに気がつく。「予定がない日に急に予定が入る」というのは、「満員電車」や「小銭だらけになった財布」と並んで大嫌いだったが、なぜか今回は嬉しかった。
*
待ち合わせは楽器屋のある、大きな街の駅だった。駅前には待ち合わせに定番の犬の像があり、多くの人がその周りで携帯を眺めたり電話をしたりしている。
「うわーすごい人だ」
「すごい人だねー」
無事合流できた二人は同じ感想を漏らす。二人とも田舎出身なので、いまだに人が多いところは慣れない。しばらく地図アプリを見ながら歩くと、目的地である楽器屋が入っているビルに着いた。
ビルは五階までの全フロアが楽器屋になっており、それぞれのフロアで専門の楽器が分けられているようだった。エレベーターを使って三階に行くと、そこにはフロアいっぱいに色とりどりのギターが並べられていた。健人の地元にある楽器屋よりも格段に広く、品揃えも段違いだ。
「すげー! 初めて来た」
ついて来ただけだった健人も、興奮して声を上げた。
「この弦、今月のギターブックで見たよ。弦変えるだけで全然音が変わるんだって」
どんなに音楽が好きだと言っても、まだまだ楽器初心者の二人にとって、一つ一つのことが新鮮で楽しい。
「なんか眺めてるだけでわくわくしちゃうね。毎日通っちゃうかも」
葵はうっとりしたように言った。
「楽器って見た目もいいよな。先輩が見た目のかっこいい楽器は音もいいって言ってた」
健人は木目の綺麗なビンテージのギターを眺めながら言った。
「新しいギター欲しいなぁ。大学生になったし、買っちゃおうかな。でもお金ないしなぁ」
葵は光沢のあるブルーのギターを見ながら言った。下には9万円と書かれた値札がぶら下がっている。
「たくさんバイトしないといけないね」
「私、夏から大学の生協でバイトしようと思うんだ。家から近いし、授業終わったらすぐ行けるし」
「もう古着屋じゃなくていいの?」
「ああいうとこって時給安いの。みんな好きだから働いてるって感じ。でももう一人暮らしだから、自由に使えるお金があったほうがいいなと思って」
意外としっかりしたことを言う。
試奏してみよっかな、と言って葵は店員さんを呼んできた。さわやかな好青年という感じの店員がやってきて、こちらへどうぞー、と言う。都会の楽器屋は、店員の雰囲気まで違う。
二人は防音の壁で仕切られたブースへ案内された。楽器の試奏用に作られた小さな部屋で、立派なアンプが置いてある。店員はテキパキとシールドをブルーのギターに挿し、葵に手渡した。分厚いドアが閉められ二人になる。
「ちょっと弾いてみるね」
そう言って葵はギターを弾き出した。キュイーンと軽快なエレキの音が響く。葵は何度もアンプやギターに付いているツマミを調整する。
心地いい音だと思った。葵のストロークに合わせて、尖った音が出たり、指の動きと共に優しいアルペジオの旋律が奏でられたりする。そしてうまく言えないが、健人はこのギターが葵にとても似合っているように思えてきた。フレットの上を、細い指が軽やかに行き来する。
「すごくいいと思う」
素直に言った健人に、葵は嬉しそうな顔をしている。
「いいよね! 欲しくなっちゃうなぁ」
葵はしばらく気持ち良さそうに弾いたあと、ブースから出て、さっきの店員にお礼を言ってギターを返した。買いますか、などというセールストークをしてこないのもクールである。
「せっかくだからベースのフロアも見に行こうよ」
葵はそう言って、エレベーターの方へと歩いて行く。ベースのフロアは四階のようなので、一つ上の階だ。階段で行こ、と言って葵は横にあった階段を上がって行く。
「わぁ、すごい!」
四階のフロアに入ると、思わず健人は声に出した。
ベース専門のフロアも、ギターと同じく見たこともない程たくさんのベースが並べられていた。こちらも試奏ができるようだった。健人は葵に弾いてみてよ、と横から小突かれたが、さすがに他の客もいるフロアなので、今の腕前ではと気後れして弾かなかった。
一通り楽器を眺めたあとは、教則本などが並べられているコーナーに行った。二人とも最初は同じ本を立ち読みしていたが、時間が経てばそれぞれ興味のある本のページをめくるようになった。気を遣い過ぎないこの関係が妙に心地よかった。
しばらく立ち読みをしたあと、葵は結局弦だけを持ってレジへ向かう。大した買い物でもないのに、なんだかすごく幸せそうだった。一緒に来ただけの健人もたくさんの楽器を見て、もっと練習頑張ろう、とこっそりモチベーションを高めていた。 <つづく>
【次回は…】
大学ではよく話していたが、休日に会う彼女はまた違った雰囲気だ。家族のことや音楽のことを話しているうちに、普段とは違った彼女の魅力に惹かれていった